ネパール・スタディ・プログラム

第2節 アジア開発銀行(ADB)

2016年11月21日 13:00-14:00 (ADB事務所)、15:00-16-30 (ギャノダヤ高等中学校)

執筆担当者:小野好之、今井美穂

概要
ADBは、1966年の設立以来、アジアの貧困撲滅に貢献している。本年は設立から50周年の節目の年にあたる。1966年以降、ネパールには50億ドルの支援を実施している。震災を受けて300万ドルの緊急援助を拠出したうえで、復興プロジェクトとして2億ドルを拠出し、JICAと協調しながら主に被災した学校の再建に取り組んでいる。仮設教室の建設、損傷した校舎の補修などのハード面の援助だけでなく、ネパール政府が進めている基礎教育改革プログラム(SSRP、School Sector Reform Program)の支援として教育の質を上げるためのソフト面の活動にも取り組んでいる。カトマンズ市内の支援対象校であるギャノダヤ高等中学校(GYANODAYA HIGHER SECONDARY SCHOOL)を見学し、校長先生やスタッフとの意見交換の機会も持った。

主要な論点

  1. 年間300万ドルの予算に対して半分しか費消できていない。ネパール議会での政治的混乱と憲法制定の遅れにより、着手が遅れたことが背景にある。2016年になってようやく軌道に乗りつつある。
  2. ADBではモデル校に対して学校運営委員会(SMC、School Management Committee)を通して支援を行っている。支援先の学校を実際に見学することで、具体的な援助内容を見ることができた。
  3. 見学した学校は、生徒数約2000人、教師数87人の公立校。保育園から前期高等学校での生徒がいる。教室の修復と技術指導が支援内容。校庭には数棟の仮設校舎が建設され、損傷した鉄筋コンクリート造(RC)の校舎に対して現在も復旧工事が進行中。活動は9名の委員からなるSMCを中心に検討され、そのうちの2名がコミュニティからの代表。

質疑応答
Q. ハード面以外でどのような支援をしているのか?(@ADB事務所)
A. SMCを通して、技術者の育成を支援している。再建のニーズに対して技術者が足りていない。技術指導、教育や情報提供を行っている。建設技術だけでなくプロジェクトマネジメントに対する教育もしている。

Q. 災害弱者(Vulnerable People)へはどのような取り組みをしているのか?(@ADB事務所)
A. 再建する際には「より良い復興(Build Back Better)」のコンセプトで取り組んでいる。トイレや衛生設備などを作る際にも性別や障害に左右されないデザインを行う。 Vulnerable Peopleへ特別に何か配慮するというより、総合的にインクルーシブな教育環境を作り徐々に改善をはかっていく。

Q. 震災後、建設方法には変化があったのか?(@ADB事務所)
A.JICAから提案を受けたBuild Back Betterのコンセプトに基づく再建方式を検討したが、費用が予算より大きく上回ることがわかった。鉄筋を入れる重要性も認識した。特に立地の悪い地方で震災に強い建築を行うのは難しい問題である。技術教育も重要になる。

Q. 教師の質の確保のためにどのような取り組みをしているのか?(@支援先校)
A. 校長として業務生成期を査定をし、引き続き任用するか判断する。政府の研修もありそれも活用し、教師の質の向上をはかっている。

Q. 地震時の避難訓練などはしているのか?(@支援先校)
A. 今は特別には実施していない。日本と違いネパールでは建物の強度が不十分である。状況によって建物の中にいた方が安全か、戸外に出た方が安全かが変わってくる。一律な避難判断が難しい。

印象的な言葉
ネパール議会の政治的な不安定さが復興の立ち上げの遅れの原因であったという言述が印象に残った。2015年の12月まで復興庁の組織や長官が決まらなかったというのも驚きだった。民主的な憲法の承認手続きと地震との時期が重なってしまったのも不運なことであった。この憲法がインドとの関係悪化・国境封鎖の要因にもなっており、内政や外交など広い視点で物事を捉えないと国際援助も効果を上げないということが理解できた。ADBはネパール政府のもたつきに対してどこまで積極的に働きかけをしたのかは、今回の議論では踏み込めなかった。

所感
訪問した学校はモデル校ということなので、他の学校に比較すると恵まれている状況なのであろう。それでも校庭には幾つも建てられている仮設校舎には窓ガラスも壁もない簡易な造りのものであった。これでは冬をしのぐのは大変だろう。そんな中でも子供たちは屈託がなく、元気いっぱい。驚いたのは保育園の時から英語の勉強をしており、皆、上手に英語を話すこと。彼らが大きくなった頃にはこの国がずっと良くなるのではという希望を抱かせてくれた。