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伊東 亜紀子さん
国連事務局経済社会局社会問題担当官(障害担当)

伊東 亜紀子(いとう あきこ):上智大学法学部国際関係法学科卒。シカゴ大学にて政治学国際関係修士号、カリフォルニア大学バークレー校Boalt Hall School of Lawにて法学修士号を取得後、国連麻薬統制計画法務担当官を経て1994年より国連における障害問題に取り組む。

 国連で働くようになったきっかけは何でしょうか。またなぜ法律をご専門に選ばれたのでしょうか。

随分早い時期から国連で働くことを考えていました。これは、父が航空会社に勤めていたことや親戚が海外に住んでいたことに影響を受けたのだと思います。幼少時からいろいろな国を旅行する機会に恵まれ、国際社会の中で、さまざまな国から来た人と一緒に世界のために働く。未だ幼いながらに自分にはそのような世界があっているのではないかと漠然と思っていました。

大学進学にあたって、世界が抱える多くの問題を解決するためにはどういう手段があり、自分がどのように具体的に貢献できるのかを考えた時、法律を選びました。法律は社会のさまざまな問題に関わっています。私は特に女性の人権問題、つまりどうすれば差別を是正し女性の地位を向上できるのかということに関心があったのですが、こうした問題に取り組むためにも法律は非常に有用な手段です。そこで上智大学に進み、国際法を中心に国際関係を幅広く勉強しました

当時のベルギー皇太子が来日された際にベルギーの研究者の方の知己を得たり、また恩師の友人であるベルギーの教授への紹介もあったことから、大学卒業後はベルギーにある大学院に進むつもりでした。 書類手続きなどもすべて済んでいたのです。ところがたまたま応募していたサンケイスカラシップ奨学生に選ばれ、予定を変更しシカゴ大学の大学院に進学して国際政治、国際関係を学びました。その後さらにカリフォルニア大学バークレー校に進み法学修士号(LL.M.)を取得しました。

バークレーでの研究も終わる頃、サンフランシスコにあった日本企業の法務を担当していました。その時期日本領事館を通して国連競争試験を受けることにしました。深夜にサンフランシスコを出発、ニューヨークに早朝着という日程で筆記試験を受けました。数か月後に同じようにニューヨークに向かい面接を受け、最初の試験から合格発表まで6か月ぐらいの時間がかかりました。

Q 今までされたお仕事はどのようなものですか。特にたいへんだった、あるいは楽しかったお仕事は何でしょうか。

国連競争試験合格後、ウィーンの麻薬部勤務のオファーがありこれを受けてウィーンに移りました。当時、麻薬に関する問題を担当する部署は三つあったのですが、私が赴任して半年くらいしてから、これらは国連麻薬統制計画として統合されました。私はここで、政府間の交渉を担当する麻薬統制委員会付きの社会問題担当官、その後法務担当官としても働きました。ウィーンでは計4年間勤務しましたが、その間いろいろな仕事をする機会に恵まれました。南太平洋における麻薬関係のマネーロンダリングの調査にも携わり、 南アフリカ共和国(以下、南ア)での選挙監視にも行きました。

この南アでの選挙監視の仕事は非常に心に残っています。上智大学での指導教授で、大変高名な国際法学者でいらした恩師が、長年反アパルトハイト運動、人種差別をなくすための活動に参加していらっしゃいました。大変強い義務感を持っていらした方でその世界観、法律家として社会正義を突き詰めていく姿に大変感銘しておりました。ですから国連のミッションとして南アの選挙監視に行くという任務には迷わず手を挙げました。

私はオランダ殖民地の歴史を名に残すOrange Free State (オレンジ自由州:オランダ王家の色がオレンジ 現在の自由州) における選挙監視を担当したのですが、この地域は見渡す限り農地。ただ、農地といっても土地は荒野で、何十年も開拓して初めて収穫を見込めるような場所です。ここで私はオランダ人のジャーナリストとチームを組んで、車で投票所から投票所へ移動し、投票が公正に行われているかどうか、選挙を管理する係の人たちが適切に監督しているかどうかなど、国連の手順書に沿って監視しました。何か問題があると、携帯電話のない時代ですから、宿に帰って交換手が電話線をつなぐ1920年代かとも見間違うような電話機で本部に報告をしました。

この仕事は、それ自体がかなり重責であったとともに、アジア人であることもあり、肌の色による強烈な差別を自分で感じたことも、とても強く心に残っています。 保守的白人層の人々から"なぜお前が監視側で働いているのだ"という視線は当たり前のようにありました。でもそれ以上に怖いと思ったのは、私が 泊まっていた宿でのことです。

この宿の女主人はオランダ系白人だったのですが、「私の夫は和解委員会で働いていて、今後の新しい南アに貢献しているのだ、私はそのことを誇りに思う」と私達に言うのです。そしてそう言ったそばから、私達の黒人の運転手に向かっては「あなたは黒人だからここには泊まれない」と言うのです。

和解や平和と口では言っていながら、おそらく自分ではそれと気付かぬままに歴然とした差別を繰り返していく。この対比に私は大きなショックを受けました。そんな女主人の運転手に対する態度に私は断固として抗議し、結局運転手だった人たちも大部屋をシェアーすることはなんとかできることとなりました。

何十年も人種差別が当然の生活をしていたのだから差別、偏見がすぐには消えないのは仕方がないかもしれない。でも、目の前にいる人を公然と差別する、そのあまりに"自然な態度"に、私は頭では理解していたアパルトハイトという人種差別問題の根の深さを見たような気がしました。この経験は、私がその後1994年からニューヨークに移り障害者問題を担当するようになったことにも影響したかもしれません。

私も含め、人は誰でもある程度生まれた社会や時代の産物なのだから、差別の意識が刷り込まれていることはあるかもしれません。でもせめて、自分を客観視できる立場にいる私達は、社会への義務として、自分の中に潜む差別の意識を分析し、いろいろな媒体を使って一般の人の目線で問題の解決に向けて考えていかなければいけない。そして国連の多くの任務は、問題を解決するためのきっかけをつくることだと考えています。

Q 現在の国連における障害者問題のフォーカルポイントとしてのお仕事はどのようなものですか?

私がニューヨークに赴任した時、前任者はいるにはいたのですが私の赴任後すぐ定年退職してしまいました。まだ経験もなく障害者問題についての専門的知識も限られている。そんな状態で一人、国連の障害プログラムを担当することは大きな挑戦でした。

プログラム担当者としての仕事は、国際障害者の日(注:12月3日)などのイベントから報告書を書くまで多岐に渡ります。国連の会議で、加盟国から私の所属する社会経済局の事務次長補に対して障害者問題に関して質問が出た場合は、その回答案も起案しなくてはいけませんでした。障害者問題に専門的に取り組み始めたばかりなのにも関わらず、国連の障害者問題に対する取組みを代弁しなくてはいけない立場にあったため、最初は戸惑うことばかりでした。

一つ私にできることといえば、自分の専門である国際人権法を使って、どうしたら障害者の権利を守ることができるのか考えること。既にある国際的な人権条約に限らず、例えばミレニアム開発目標のような広い意味での国際的な規範や合意を策定していくことが、専門を活かし、かつ障害プログラムの発展に貢献するために自分がするべき仕事だと思いました。

そこで私はまず、人々に広く障害プログラムについて知ってもらうため、インターンの方たちと協力して国連の障害に関する古い記録をすべて掘り起こし、国連創立50周年に併せて「国連と障害者-初めの50年」 (The United Nations and Disabled Persons -The First Fifty Years) という刊行物を出版しました(注:下記リンク参照)。これによって障害者プログラムの歴史と今後の活動の基盤を明確にしました。次のステップとしては障害プログラムの使命を明らかにすること。そのために、国連総会や社会開発委員会が障害者問題についてどんな行動をおこすべきだと言っているのか深く理解することが大切でした。そしてさらに根本的な課題としては、国連機関のさまざまな活動の中に、どうすれば、そしてどのように障害者問題を取り入れてもらえるのか。この三点が、私が障害者プログラムを展開していく上での支柱になりました。

具体的に説明しますと、まず今ある国際規範はどのように障害者のために使うことができるのか、ということを学ぶためのプロジェクトを実施しました。手始めとしては自らいろいろな学会などに出かけ、国際人権法の学者や障害者問題の専門家などとのネットワークを構築し、勝手に自分のための障害問題専門家グループをつくりました。

その上で、1998年にカリフォルニア大バークレー校で障害者の問題に関する専門家会議を開きました (UN Consultative Expert Group Meeting on International norms and Standards Relating to Disability, Berkeley, USA)。この会議では、ネットワークで知り合った専門家から、今まで障害者問題に関わったことのない国際法学会の会長の方まで、色々な方に来ていただきました。彼らは、最初のうちはそれこそ皆なぜ自分がここに呼ばれたんだろうと考えているようでしたが、話し合いを進めていくうちに、国際法の専門家と障害者問題の専門家、それぞれ「自分達にはこういうことができる」、「こういう点で協力することができる」、そして、例えば障害の専門家は「国際法を使えばこういうことができる」ということが分かってきたのです。この双方向の学びを通して、障害者と国際法の接点を探すステージからより具体的な提案をするステージまで到達することができ、非常にいい報告書もできました(注:下記リンク参照)。

翌年1999年には香港で今度は地域間会議を行いました(Interregional Seminar and Symposium on International Norms and Standards relating to Disability, Hong Kong, SAR)。ここでは三つの問題が取り上げられました。一つは国際規範をどう戦略的に使って障害者の人権を擁護していくのか。二つ目はITの企業なども招いてアクセサビリティーの問題を取り上げました。三つ目は障害の定義の問題。あらゆる分野の専門家がこれらの問題を中心に、どのように障害の問題に取り組んでいけばいいのか話しあいました。

私の仕事はこのように、ロードマップを描き、研究案をまとめるなどして、専門家の方々に広く障害に関する問題を話しあってもらうよう促進することです。学際的な議論を実現するための機会を提供し、さまざまな分野の人々の出会いをつくる、これにより自分自身も国際人権法と障害について研究をすることができ、この90年代終盤は非常に充実した時期でした。

その後2000年ごろから社会開発委員会でも障害者問題について何か国連が新しいイニシアチブをとれないかという機運が高まりました。同じ頃メキシコが障害者の権利に関する条約を策定しようという提案をし、これがきっかけとなって、2006年末に採択された障害者権利条約が生まれたのです。当初はこの条約策定プロセスの事務局としての作業は非常にたいへんでしたが、4回目のアドホック委員会が行われる頃からでしょうか、議論や手続きがスムーズに動き始めました。そこでこの頃からは、条約の採択・批准の後にくる履行に関しての準備を始め、今もこれに取り組んでいます(注:障害者権利条約策定過程については国連フォーラム勉強会 下記リンクを参照)。

Q 国連という職場にはどのような魅力があると思いますか。

私の社会人としての経験はほぼ国連の職員がほとんどですので、今はもう自分のアイデンティティの一部分になっているような気がします。私も日本人として日本の社会が更に発展し日本の若い方々が益々国際社会で活躍してくれることを切望しています。 自分が誰の利益を重視しどのようなプライオリティーを持って 働きたいかと考えたとき、既に人材やさまざまな基盤のある先進国ではなく、まだ能力向上や社会開発に課題のある国の人々のために働きたいという希望を持ってきました。そのような自分の価値観がある一定のレベルで体現できるということが国連という普遍的な使命感を持ちうる職場の魅力だと思います。


Q 今後はどのようにキャリア・アップしていこうとお考えですか。

障害者の権利条約の策定過程が終わるのを待っていた部分もありましたが、今しばらくは障害プログラムの担当を続け、条約が批准され履行が軌道に乗るまでは関わっていきたいと思います。その後は自分の専門性を活かしつつ違う分野にも挑戦するかもしれません。国連事務局に席を残しながらも出向のような形で他の国連機関に行くことも可能性としてはあります。ただ今後自分のポストから上に行こうとすると、人事など管理分野を担当することが求められ、自分の専門性とのバランスが難しいですね。そしていつかは自分の経験を何らかの形で日本に貢献したいとも考えています。

Q 日本は今後この分野でどのような貢献ができるとお考えですか。

日本では近々JICAとJBICが統合し、世界で最も大きな規模の開発援助機関が誕生します。その活動の規模も与える影響も大きいですから、非常に期待しています。障害はいつでも誰にでも起こりうる問題であり、障害者の方々と家族の方々とそのコミュニティーの人々含めれば、世界のかなり多くの人々が抱える問題でもあります。ですから、開発における障害者問題対策の分野において、日本の貢献は世界でも期待されていると思います。例えば、今後開発プロジェクトを行う時には必ず障害者の参加、障害者との対話を促進し、障害者と共に 実施していくことを原則とする、あるいは、日本の進んだ科学技術でこれから更に障害者支援に役立つものを開発援助のパッケージに盛り込むといったことなどが考えられます。

開発にはさまざまな分野がありますが、開発援助に携わるすべての人が障害に関して高い専門的知識を持つ必要はないのです。それぞれがそれぞれの分野において、「自分達のプロジェクトではこのように障害者支援を取り入れていこう」という姿勢で取り組んでいけばいいのです。既に世界銀行や地域開発銀行、またJICA,USAID, FINIDA, DANIDA, SIDA をはじめ、障害者の参加を取り入れてプロジェクトを進めている開発援助機関もありますから、そうした機関の活動から、どうすれば開発の中でより多くの障害者が参加していけるのか、成功例などを抽出し方程式をつくっていけるといいですね。現在国連システムのなかでも
Disability mainstreaming が始まりつつあります。たとえばミレニアム開発目標を達成していくためのプロセスにも、全てのレベルで障害が含まれていくことが最も重要な突破口になると思います。

Q グローバル・イシューに取り組もうと考えている若い人たちへのメッセージをお願いします。

まずは自分の人生設計をしっかり考えるといいのではないでしょうか。自分は何を一番やりたいのか、何が得意なのか。その上で、自分なりの専門分野を持つことが大事だと思います。多くの選択肢の中から国際社会で働きたいと思ったときに、国連機関だけではなく、NGOなどのいろいろな職場を検討してみてください。これからは単に"国連に勤める"のではなく、国際社会のどのような場でも通用するプロフェッショナルとして自分で納得できるキャリアを積み重ねていくことが必要だと思います。

また、国連に関して言えば、職場での人間関係や昇進などに政治や差別、個人の利益などいろいろな要素が 絡まっていて、いいことばかりではありません。ただ、もしそのような状況に巻き込まれたときに、それが例えば 個人のレベルでの差別なのか、政治的な要因が絡んでいるものなのか、状況を判断して戦略を立て生き残る強さが必要ですね。場合によっては、このような状況でよく言われる「自分のことを先ず考えなさい」というアドバイスに従わざるを得ない時もあるでしょう。人間関係を戦略的に利用することが必要になるかもしれません。ただ私は、やはり自分が心から信頼できる人とのネットワークを築くことも大事だと思います。色々な人と交流を深め、自分は誰を一番信頼できるのか、誰が自分を理解してくれているのかちゃんと見極めてネットワークを構築すれば、いざという時に、その中から自然にアドバイスをくれたり支援してくれる人が現れるものです。

(参考)
「国連と障害の始めの50年」 (The United Nations and Disabled Persons -The First Fifty Years)
http://www.un.org/esa/socdev/enable/dis50y00.htm

1998年12月 UN Consultative Expert Group Meeting on International norms and Standards Relating to Disability http://www.un.org/esa/socdev/enable/disberk0.htm

1999年12月 Interregional Seminar and Symposium on International Norms and Standards relating to Disability http://www.worldenable.net/hongkong99/

2007年4月11日 国連フォーラム勉強会 「障害者の権利条約--その意義、条約策定過程、今後の課題」 http://www.unforum.org/lectures/35.html

(2007年7月13日。聞き手:朝居八穂子、国連フォーラム幹事。国連経済社会局インターン。写真:田瀬和夫、国連事務局で人間の安全保障を担当。幹事会コーディネーター。

 

 

2007年9月19日掲載

 


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