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高須司江さん
国連テロ対策委員事務局・上級法務官

 

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高須司江(たかす すえ):国連テロ対策委員事務局上級法務官。早稲田大学法学部卒業後、司法試験を経て1995年検察官検事に任官。東京地方検察庁、横浜地方検察庁、水戸地方検察庁、法務省刑事局国際課、国連極東アジア犯罪防止研修所(UNAFEI 通称アジ研)等を経て2005年8月、法務省から国連テロ対策委員会事務局へ出向。2010年3月31日付けで検事を辞職し、現職。

Q. 国連で働くことを意識したのはいつごろからですか?

私の場合は, 常々国際関係に興味は抱いていましたが、特に国連を目指して入ったというわけではなく、 2004年の秋、検事として東京地検で取調べをしていた時に突然、先輩検事から電話が入り、「ニューヨークの国連で働いてみないか」とのお誘いを受けたのが始まりでした。その時は、被疑者の取調べの最中だったので、折り返し連絡をするということで電話を切りましたが、本当に青天の霹靂という感じでしたね。

後から話を聞いたところ、ニューヨークの9・11同時多発テロを契機として、国連では数々のテロ関連決議が採択され、そのうちの2004年の決議によって、各国のテロ対策をモニターするための国連テロ対策委員会事務局(CTED)が安保理の下に設立されることになり、日本政府としても人的貢献を果たしたいということでした。そこで私が手続に従って応募をし、その後、国連人事部の方との直接面接、さらにはニューヨークにいたスペイン人の事務局長と日本時間の夜中3時に電話面接を受けるなどして採用が決まったんです。 

お誘いを頂いた時に勤務していたのが、東京地方検察庁の公安部という国際組織犯罪も捜査する部署で、私は検事として主に外事関係の捜査を担当していました。そこはテロ関連事件も扱う部署で、日本のサリン事件は、国際的には、世界で唯一、化学兵器を用いて敢行されたテロリズムとして理解されていますから、そういう意味では日本の経験は貴重なものといえるかもしれません。 

Q. 学生時代はどのようなことに力をいれていましたか?

高校時代は朝から晩までピアノばかり弾いていました。音楽大学付属の全寮制の音楽高校に通い、寄宿舎生活を送っていたんです。ピアノが専攻で、朝6時から夜の10時まで、食事とお風呂、授業を除いては、練習ばかりです。授業にしても、音楽理論、ソルフェージュ、音楽史、合奏、合唱、ピアノのレッスンなど、普通の高校とはかなり違ったものでした。そんな生活でしたから、自分はおそらくピアノで食べていくんだろうと思っていて、今のように、国連でテロ関連の仕事をするなどとは夢にも思っていませんでした

Q. 大学は音楽大学に行かなかったのですか?

行かなかったんですね。音楽馬鹿というか、中学・高校と、本当にピアノ以外のことをやる時間がなかった。小学校4年生からは、月に1回、一人で関西から東京までピアノのレッスンに通っていたんです。高校を卒業するまで、普通の中高生が経験する、友達と遊ぶとか、映画を見に行くといったことも殆どありませんでしたし、練習時間が取れないという理由で、林間学校や修学旅行も行かせてもらえませんでした。それで、外の世界を見てみたいという強い思いに駆られたんですね。このままこんな生活を続けたら何も知らずに死んでしまう、なんて思ったんです(笑)。でも、今考えると、一つのことを成し遂げるにはそれくらいのことは必要だと思うのですが、そのときはただそんな風に思ってしまって、高校3年生の夏にとうとうピアノを辞める決意をし、一般大学に行くことに決めました。

それでも、真剣にピアノをやっていて得たものはいくつかありました。その一つは「根気強さ」ではないでしょうか。舞台で見るピアニストは、女性であれば華やかな衣装を着て優雅に演奏していますが、その裏には本当に地道な練習を毎日毎日、積んでいく努力が必要です。これは、肉体的にも精神的にもいい鍛錬になったと思っています。また同時に、華やかな音楽の世界の舞台裏も、小学生の頃から見ることになり、綺麗ではない芸術の世界の現実も垣間見てきたので、正直、音楽の世界を去ることにさほどの未練はありませんでした。

Q. 周囲の人からの反対はなかったのですか?

そこまでやったんだから、当然周りの反対があると思いますよね。私もそれを恐れるとともに、少しは期待していたんですが、拍子抜けがするほどなかったんです。才能がなかったからなのか、両親が不憫に思ってくれたからなのか、はたまた両親の財力が尽きたのか(笑)。本当に理解のある先生と両親に恵まれたと思っています。時期的に丁度、当時のピアノの先生に同い年の子どもがいて、進路の問題で非常に悩んでおられたので、私の気持ちも理解して頂けたのだろうと思います。両親も、私の音楽のために投資したお金と労力はたいへんなものがあったと思いますが、私がピアノを辞めたいと言った時には怒ることもなく、静かに私の希望を受け入れてくれました。今思えば本当にすごいことで、両親には感謝しています。

Q. お辞めになったときは徐々に決意を固めたのですか?

辞めようと思ったきっかけは、本屋さんで赤本(大学受験参考書)を立ち読みしていたときでした。ピアノをやっていたので受験コーナーにはご縁がなかったのですが、あるときちょっと覗いてみようと思い、赤本を立ち読みしたときに、ふともうピアノを辞めてみんなが行く大学に行ってみたいと強く思って決めたんです。普通の大学にいくことが、当時の私にはすごく新鮮に映ったんですね。ピアノは舞台での緊張感とか当日の体調等に左右されますし、ミスタッチをしたら弾き直しがききまませんが、普通のペーパーの試験は一度書いた答えでも、「あ、間違えた。」と消しゴムで消してしまえるので、なんて楽な世界なんだ、と思いました。私には大学受験勉強がすごく新鮮で、楽しくて仕方がありませんでした。だから、短期間で何でも頭に入ってきたのかもしれません。

Q. その後、法曹界へと進まれますが、大学受験の時に法律への道を考えたのですか?

大学受験の時は本当に無知で、何もよくわかっていませんでした。何しろ、音楽高校に通っていたので、一般の高校と授業のカリキュラムも違い、高校3年の夏休みには、まず教科書を買ってくることから始めなくてはならず、とにかく一般大学に入るというのが目標でした。漠然とですが、優雅に見える音楽の世界から脱したいという思いだったので、質実剛健、バンカラなイメージのある早稲田大学に憧れて、早稲田大学に入りました。文学部や外国語学部も受かりましたが、法律をやりながら、自分で語学の勉強をしたり、本を読んだりはできるけれど、その逆はできないだろうと思い、結局、将来の選択肢が広くなるだろうと思われる法学部を選びました。

Q. いつ頃から司法の道へ進もうと思ったのですか?

大学に入った頃は、法学部を卒業すればみんな弁護士になれるんだろうくらいに思っていたのですが、大間違いであることがわかりました(笑)。司法試験という難関が待ち受けていたんですね。学生時代は、高校まで何も普通のことができなかった反動から、これを取り戻すかのように法律以外の学生生活を謳歌させて頂きました(笑)。卒業が近づいて就職を考えなくてはならなくなったのですが、当時はまだ、女性が企業に入って男性と同じように幹部を目指していくというのは相当に困難な時代だったんですね。それで、やはり何か資格があった方が良いだろうと思って、一番身近だった司法試験の勉強を始めたんです。

ところが、勉強を始めて2年くらいたったときに、母が癌にかかっていることが判り、余命5年だと告知されました。当時私は母と二人暮しだったので、私にできることは全部しようと思ったんです。そんなわけで、司法試験の受験勉強をしながら、病院への母の送り迎えをしたり、病院に泊り込んだりして、5年間、看病しながらの受験生活を過ごしました。医師の宣告通り、5年後に母が亡くなり、お葬式などの雑事が多くあって十分な勉強ができていなかったのですが、結果的にはその年に司法試験に合格しました。母は私の合格を知らずに逝ってしまいましたけれど、試験に合格しなかったから、あのように母と24時間一緒にいられたので、今ではそれが良かったと思っています。それでもその年は精神的に参っていて、その年の夏に受からなければ、司法試験をあきらめて外国で日本語教師になろうかと思っていました。

Q. 司法試験合格後のキャリアを教えてください。

子どもの頃から語学には興味があって、日本放送協会(NHK)のラジオやテレビで英語、ドイツ語、ロシア語、中国語などをやっていました。自由に旅してみたいというのが主な目的でしたが、語学に興味をもったのがきっかけで、将来は国際的な仕事に就きたいと思い、渉外弁護士を希望し、とある渉外事務所から内定もいただきました。ところが、2年間の司法修習で弁護士事務所、裁判所、検察庁を見て回るうち、一番最後の検察修習で、検事の仕事に惹かれ、既に決まっていた渉外事務所をお断りして、最終的には検事になる道を選んだのです。

Q. 検事のお仕事のどのようなところが面白いと思われたのですか?

私自身、一番驚いたのは、被疑者の取調べを担当させて頂いたときに、何故そのような罪を犯したのかという問いに対して、被疑者の口から、育ってきた家庭環境や動機、その心情の吐露を直に聞くことになったときでしたね。いわば人生の恥部のような部分を人前に曝け出すなんてことはそうそうできないものですが、検事と被疑者という立場に置かれることによって、逆に親しい親兄弟や友人には話せないようなことでも話せる環境が形成されるのだと思います。

このように、検事の仕事は、人間の心の機微に触れたり、人の行動に環境が与える影響などを見ることが多く、そこに興味を持ちました。一人の人間が経験できることは限られているので、本を読むことで多くを学び補っているのだと思いますが、フィクションでない話を当時者の口から聞けるという仕事はなかなかありません。そして、検事の仕事は、被害者の立場に立って真実を追求し、正義の実現に貢献できるという自負を感じることができる上、同時に、被疑者のことを理解し、いわば心理カウンセラーの役割を担ってその更生を手助けするという役割も担っているので、やりがいのある仕事だと考えたのです。また、国によって検事は公訴を提起して公判の立会だけを担当するところもあるのですが、日本の場合は、検事が捜査にも公判にも携わっています。私も、万引きや痴漢などといった比較的軽い犯罪から、知的所有権犯罪、麻薬犯罪、強盗強姦殺人まであらゆる事件の捜査と公判を経験しました。解剖も何度も行きましたし、警察官100人程を乗せたトラックでカジノの現場に踏み込んだりもしましたよ。

Q. 殺人犯などの凶悪な犯罪者を前にして怖くありませんでしたか?

よく聞かれる質問なのですが、怖いと思ったことはありませんでした。検事をやっていて思ったのは、性悪説と性善説があるとしたら、私は基本的に性善説に立つということでしょうか。確かに改善更生の余地が極めて乏しい生来的犯罪者というような人も皆無とは言いませんが、それはどちらかというと病的な場合が多く、ごくごく稀です。犯罪を犯した動機は大体が理解可能なもので、たいていの場合は、歯止めの弱さ、つまりは人間としての弱さ、脆さというものが最大の原因ではないかと思います。また人的・物的環境が人に与える影響は恐ろしく多大なものだと考えます。言い換えれば、どんな恵まれた環境でも犯罪に走る弱いタイプの人間もいる一方、どんなに劣悪な環境でも一途に生きていける強い人もいますが、大抵の人間は、生まれ持った性格に環境が影響して、左右に振れながらも、刑法に抵触するようなことはなく生活を送っていくものです。ですから、そういう意味で、自分をどのような環境に置き、どのような人付き合いをするかは、生きていくうえで非常に重要なものだと思います。

ただ、日本の場合は、イタリアのマフィアやメキシコの麻薬戦争などのような状況とはかなり異なっており、比較的、司法関係者の安全は良く保たれていると言えます。これには、日本人の死生観が関係しているのではないでしょうか。国連職員からは、想像を絶するような人道に反する罪の話も耳にすることがあります。ただ、平時と(準)戦時では人の精神状態は想像が及ばないほど違うのは間違いないと思います。戦争は殺人を誉とし、普通の人々を殺人者とし、殺人犯に勲章を与えるわけですから、人の精神状態を狂わせるのももっともではないでしょうか。

Q. 検事から国連へと移ることになったきっかけを教えてください。

私は、検事の在任中に、国連極東アジア犯罪防止研修所(UNAFEI、通称ユナフェイもしくはアジ研:日本政府の100%出資で、国連の経済社会理事会に属する)で教官を3年ほどやったことがあり、これが国連に出向してみないかと声がかかることになった遠因にあたると思います。

アジ研は、当初、アジアの発展途上国を対象にしていたのですが、現在は、全世界の発展途上国を対象として、警察官、検察官、裁判官、保護観察官などの刑事司法関係者のためにセミナーや研修をしている機関です。各国の法律そのものは違えど、捜査訴追の手法や犯罪者の矯正教育などの問題点は共通していることが多いですし、時世によって汚職、テロ、経済犯罪、サイバークライムなど、そのときに問題となっている課題などを取り上げ、各国の現況を報告してもらって議論を重ね、解決策を模索するといったことを行っています。

被告人が有罪判決を受けてから後、刑務所で彼らをどう処遇するかということも極めて大切な問題です。日本の考え方は、懲罰を与えるという応報観念に加えて、改善更生を目指した矯正教育が主な柱になっています。例えば、ある時代の米国の刑罰は、罪を犯した者の自由だけを剥奪するという純化した刑罰思想を有していましたが、日本の刑務所は、犯罪者が社会に戻った際に普通の市民として普通の生活を送っていけるような職業訓練を施すなど、社会復帰を目指したプログラムになっています。前者のモデルが上手く機能しないということがわかるようになって日本のモデルは他国の模範となるに至り、如何にして効果的な矯正改善教育を施すかについての研修は、アジ研の重要な研修の一つになっています。

アジ研の研修は、通常2週間から1か月ほど、研修生がアジ研の宿舎に泊まり込んで行われています。この間、研修生は、家族から離れて、環境も習慣もまったく違う極東アジアの日本という国で研修するわけですから、研修生同士も、そして研修生と教官との間でも、密なコミュニケーションが図られます。私自身、このときに得た人脈には、国連に来て仕事をする今も、大変助けられています。先日も、あるカリブ諸国のワークショップに出席した際、隣に座ったインターポール中南米支局のオフィサーが、私が以前担当したアジ研研修の研修生だったので、非常な驚きをもって再会を喜びました。

アジ研での教官在任中には、国際通貨基金(IMF)主催のマレーシアのマネーロンダリング査察に外部の専門家として加わったり、アラブ首長国連邦の警察大学校の依頼を受けてアブダビで日本における薬物犯罪や国際組織犯罪の現状について講義をしたりもしました。このような機会を通じて、世界各国の司法関係者とのネットワークが広がり、私が現在担当するASEAN諸国に出張した際には、元アジ研卒業生に出会う機会も多く、アジ研を通じて得た人的な財産には本当に感謝しています。

Q.法務省を退職されて国連の職員になられた訳ですが、国連職員の方が今の高須さんにとっては魅力的ですか?

非常に悩ましい決断で、苦渋の選択でした。私自身は検事としての仕事を非常に誇りに思っていましたし、魅力的でもありました。昨年末までは、派遣期間を1年延長して頂いて2010年末で検事に復職しようと考えていましたが、諸事情により、2010年3月以降の延長は難しいとの結論に至ったのです。そこで、今年の3月で国連を辞職して日本に帰るか、検事を辞職して国連に残るかの決断を余儀なくされ、本当に悩みましたが、結局、国連に残ることを選んだのです。

決断にするに至った実際的な理由の一つは、昨年が恐ろしく忙しくて、帰国の準備などまず全く考えられる状態ではなく、また2010年の査察の予定なども入っていて、とにかくやるべき仕事はやりたかったということがあります。仕事の面で比較すると、検事の仕事と国連の仕事はまったく違うのですが、国連の仕事では、いろいろなバックグラウンドを持っているいろいろな人と知り合って人の輪が広がっていくという、他ではなかなか経験できない魅力があります。しかし、何よりも考慮したのは仕事と私生活のバランスの問題かもしれません。日本での生活は、仕事の占める割合が若干バランスを失して大きく、私自身が古いタイプの人間でもあって一旦日本に戻るとその慣習に抗えなくなってしまうので、自己実現が少々難しいと考えたのです。そういうわけで、諸事情を総合考慮した結果、国連に残ることに決めました。

国連での私の仕事は、主に政府を対象としたテロ政策を監視・指導しているので、直截的な人道支援などのように、自分たちの仕事の成果が目に見えて現れて実感できるというタイプのものではありません。しかしながら、国連でなくてはできない、国の政策の流れに弾みを付ける、ということもあります。例えば、国内政策決定の場面において、関係省庁間の意見の相違によりなかなか政策を導入できない、立法でも政党間の争いや政治家の利害の衝突があってなかなか法案が通らないということがあります。こういうとき、国内の権力争いとは次元が違うところに位置している国連が提案や発言をすると、魔法のように道が開けることがあるんです。そういう形で国家の施策の方向性にはずみをつけられるのは国連の魅力のひとつではないでしょうか。とは言っても、日々の仕事は、各国のテロ関連法規の詳細な調査、テロ資金関連の文献の調査等、実に地道な作業ばかりです。

Q. 先ほど基本的に性善説を信じているというお話がありましたが、テロ対策を扱うに際して核となる高須哲学はありますか?

安保理決議1624(2005)では、文明間の対話と理解の重要性が説かれているのですが、これは、何も新しいことを言っているわけではなく、テロ防止のためだけでなく、日常生活の円滑な人間関係においても同様に当てはまることではないかと思います。人に対する理解や思いやりの不足から多くの諍いやテロが発生してくるのではないでしょうか。基本的に人間はみな幸せになりたいという欲望があって、それはみんな変わりません。世の中にはまだまだ不合理や人間の理解を超えているもので溢れているので、心の平穏を求めて人間は宗教を発明したのだと思います。それが地方の気候風土、文化などによってキリスト教であったり、イスラム教であったり、仏教であったりするのです。どの宗教でも、究極の目的は、心の平安を求めて幸せであろうとするということは同じだと思います。

今日のテロリズムの原因は複雑に種々の社会事情が絡んでいて、単純にこれだと特定することはできません。貧困や差別も大きな要因でしょうし、政治腐敗も大きく関係しています。しかし、現代的な極端主義(extremism)に基づいて敢行される無差別テロリズムは、相互理解の欠如が最大の要因ではないでしょうか。実際のテロリストも話をしてみれば、案外、世の中の不合理に憤っている家族思いの人物である可能性もあります。ただ、彼らは確信犯ですので、この洗脳されてしまっている人たちを普通の世界に戻す(de-radicalization)のは非常に難しいことです(オウム真理教入信者の例でもわかるとおり)。これを可能にするには、お互いを理解しようとする努力と対話しかないと思います。また、事前に対話を図って相互の理解を深めることで、テロも未然に防ぐことが可能になります。こういったところに決議1624の意義があるのではないかと思います。

検事の取調べにおいても、被疑者の犯した罪の動機を追求する際には、同じ過ちを繰り返さないように精神的なサポートをすることを心がけていました。人間はどんなに悪いことをしてもその裏にはその人なりの理由があって、話を聞いてほしい、少しでもいいから理解してもらいたいという部分があるんです。誰しもいったん人に自分を認めてもらえると、安心して人生をやり直そうと思ったりするんですね。検事時代の経験から、人は根っからの悪ではなく、たいがいやり直せるものだと思うようになりました。問題はその気持ちが継続するかどうかです。人間は甘い誘惑には弱いですから(笑)。


Q. 現在取り組んでおられる分野で日本ができる貢献についてどうお考えでしょうか?

日本は宗教的な対立を外国との間で抱えていないので、いろいろな面で仲介役になることができると思います。特に今年は、日本がAPEC(アジア太平洋経済協力)テロ対策タスク・フォースの議長を務めているので、日本のリーダーシップを期待しています。

Q. これからグローバルイシューに取り組もうと考えている若者に何かメッセージをお願いします。

国連は、生の国際政治が繰り広げられる場でもありますが、国連で働く多くの人は、国連が掲げる理想を現実のものとするべく日々の仕事に取り組んでいます。国連を目指している人だけでなく、夢がある、やりたいことがあるということはとても幸せなことですから、是非とも自らの夢や目標に向かって具体的に行動して、実現してほしいですね。

 


2010年5月22日、ニューヨークにて収録
聞き手:唐澤由佳
写真:田瀬和夫
プロジェクト・マネージャ:芳野あき
ウェブ掲載:斉藤亮

 


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