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持田 繁さん
国連アジア太平洋経済社会委員会(ESCAP)事務局次長

 

持田繁(もちだ・しげる)一橋大学法学部出身。プリンストン大学修士(Master of Public Affairs, 国際関係論)。1975年外務省入省後、国連局政治課、アメリカ局安全保障課勤務。1980年に国連事務局入り。事務局政治安全保障理事会部、政治部(DPA)等で主にアジア、中東、東アフリカの紛争解決を担当。現在国連アジア太平洋経済社会委員会事務局次長。

Q. 国連で勤務することになったきっかけを教えて下さい。

サイゴンが陥落した1975年に外務省に入省して、日米安全保障条約と同地位協定の運用に関わる仕事をしていました。そんな中、1979年末だったと思いますが、国連開発計画(UNDP)の採用ミッションが来ました。特に興味をUNDPに限定していたわけではなかったのですが、その面接を受けて、1980年にUNDPに入りました。

その後間もなく当時の国連事務局にあった政治安全保障理事会部(Department of Political and Security Council Affairs−現在の政治部(Department of Political Affairs: DPA)の前身)に移りました。最初に取り組んだのが宇宙の平和利用で、その後安全保障理事会部(Security Council Affairs)に移り安全保障理事会に関わる仕事をしました。最初の3年程は外務省からの出向でしたが、その後、国連事務局の恒久職員になりました。

1980年代後半、ハビエル=デクエヤル事務総長の二期目にあたりますが、防止外交の重要性が認識され始めたのに伴い防止外交のための情勢分析を任務とするORCI (Office for Research and the Collection of Information) という部が事務総長室の中に創設され、そこに移りました。ORCIではアジアと中東での地域紛争に関する分析を担当しました。その後、ブトロス=ガリ事務総長がORCIを含め事務局内に7つほど点在していた政治関係オフィスをすべて現在のDPAに統合したのに伴いDPAに移りました。DPAでは10年ほど主に東アフリカにおける紛争防止と解決、紛争後の平和構築等に従事しました。アジア、中東、そして東アフリカを中心とするアフリカをかなり広くカバーすることができました。その後、本部以外での仕事を求めESCAPに来ました。

Q.採用ミッションの面接を受ける前から国連にご興味がおありだったのですか?

いや、特になかったですね(笑)。たまたまです。当時、外務省国連局勤務だったため、国連の採用ミッションが来るとかという情報には接することの多い環境にはいたのですが。もともと外交問題に興味があったものですから、国連はその延長線という感じで知人の奨めに応じ面接を受けてもいいかなと思って受けました。

Q.ESCAP事務局次長として、今なさっているお仕事はどのようなことですか。

典型的な「ナンバー2」の仕事と言っていいと思います。ESCAPを含め地域委員会事務局というのは経済社会分野一般と仕事が広範囲にわたり、かつ地域的な守備範囲も広く、事務局長は出張が多いので、私の1番の仕事は臨時代理(Officer-in-Charge: OIC)をやることですね(笑)。極端に言えば事務局長がいると何もしなくてもいいが、いなくなったとたん全部が降りかかってくるという感じです。そういう変な立場というか、仕事です。そんな中で一つだけ特別に意識しているのは、何かに特化した機関と違いその仕事がよく知られにくいESCAPのアドボカシ一です。ESCAP全体の仕事を大体掌握しておき、メンバー諸国のみならずニューヨークやジュネーブ等グローバルな国連ネットワークとの連絡にも注意を払うようにしています。

Q.ESCAPのアドボカシ一を具体的に説明していただけますか?

60数年前、バンコクにあった国連機関は、ILOとESCAPだけだったと聞きます。そのような環境下でESCAPは当時国連の社会経済関係全般をカバーする役目を果たしていました。ところが現在バンコクには国連関連事務所だけで30あります。これは、社会経済関係の仕事は細分化され、ESCAPの仕事のどれをとっても他の機関が同時に専門的にやっている時代になったという事でもあります。専門分野が一つだけあるという場合、組織の提供するサービスのブランディングとそのアドボカシーもやりやすいのですが、経済社会問題を幅広く扱うESCAPの持つ利点や国連組織としての存在意義を周知しようとするのはなかなか大変です。

幸い最近は社会経済問題自体の複雑化に伴い、ひとつの専門分野からのみのアプローチではその問題の一部しか捉えられず、包括的なアプローチが必要になっていることから、問題自体が向こうからESCAPの方に近づいてきた感じがします。例えば気候変動などは環境という側面からだけアプロ一チしたのではとても把握、対処しきれません。それに開発の問題はこれまで通り並存しています。また、近年のグローバル化に伴い問題のほとんどが国境を越える性格を持つようになったため、経済社会問題について国内単位で活動をすることの多い機関と違い、ESCAPの地域的な視点と地域レベルでの仕事の重要性は高まり、その存在も第二次世界大戦後の復興の時代とは多少違った意味で再び時宜を得たものになっていると考えています。ですから、そういうところを伝えて、ESCAPの存在意義を宣伝しようとしています。

今のところESCAPは案外名前が知れていないし、その存在意義もよく認識されていないと感じます。会議に参加の際には、他の参加者との意思疎通や発表を通じアドボカシーに努めています。また、国連の内部には、事務総長の上級管理グループ(Senior Management Group)なるものがあるのですが、これは事務総長と事務次長(USG)レベルの情報意見交換の場です。うちの事務局長はしばしば出張で不在のため(笑)、私はランク的に相当下がるのですが、事務局長の代理で参加するなどしています。

Q.国連で働く魅力はなんでしょうか。

グローバルな公益のために仕事をできるということではないでしょうか。

私自身が国家公務員あるいは国連職員というキャリアを選んだ動機は、企業に入って利益追求に従事するのではなく自分に興味のある分野で公益追求に関する仕事をしたいという単純なものでした。私が大学生だった頃はそういう意識が強い時代だったように思います。企業の社会的責任という概念が後になって広まりましたが、当時は私企業と公益とは対峙する概念でした。同級生の中でも、私企業で利益追求の仕事はしたくないものの他に選択肢がないというのがジレンマでした。私の場合、公益の分野でなおかつグロ一バルな問題の仕事をしたいとなると、やはり外務省等の政府機関が考えられるので、そこに入ったわけです。しかし、グローバルな公益に関わった仕事をするのにより適した組織は国連でしょう。一国の利益の観点からでなく、グローバルな公益という観点から自然にアプローチすることを許してくれる場所だと思います。そこに魅力を感じて入っていったような気がします。

Q.これまでで1番思い出に残った仕事は何ですか。

一番思い出に残ったのは、エリトリアとエチオピアの紛争調停に関わった時です。エリトリアは元エチオピアの一部でしたがエチオピアで同時期に政権を握った反政府派とエリテリアの独立運動組織が共闘関係にあったため1993年にエチオピアの祝福を受けて独立しました。国連の監視下で国民投票をやって独立したもので、国連の平和維持、選挙監視活動の典型的な例でもありました。ところが、1998年の5月にエチオピアと軍事衝突をし、戦争が始まりました。エリトリア独立の経緯とそれまで蜜月の関係にあったエチオピアとの間で武力衝突が始まった旨、ある朝の会議で報告したところ、「ばかいえ」という顔で見られたのを覚えています(笑)。

当時私は政治部の東アフリカ担当官だったため、その後任命されたエチオピア、エリトリア関連事務総長特使の補佐をすることになりました。アフリカ統一機構(Organization of African Unity: OAU、現African Union-アフリカ連合)の特使が調停の第一次的責任を負い、国連事務総長の特使がそれをサポートするという立場でした。1999年か2000年初頭、OAU、国連およびアメリカ国務省の特使の3者が、当時OAUの議長国だったアルジェリアの迎賓館に集い和平協定案を起草しまし、私はその補佐をしました。その後の戦闘の推移に伴って我々の起草した和平協定案の一部がまず停戦合意となり、その後の和平合意のたたき台となりました。この和平調停の過程に多少なりとも参画できたことが一番の良い思い出です。

Q.国連に入って1番大変だったことは何ですか。現在のお仕事で悩んでいることなどはありますか。

大変なことはあったと思うのですが、特段際立ったものはないように感じます。現在一番大変というか、問題意識としてあるのは、すでにアドボカシーのところで触れた国連システム内における地域委員会、ESCAPの役割ということでしょうか。国連の各組織がそれぞれの存在意義を持っているわけですが、限られた専門分野ではなくかなり一般的に、かつ主に地域レベルで経済社会問題を扱う地域委員会の役割や存在意義をどういうふうに規定していくのか、それが現在の問題意識ですね。

Q.現在取り組んでおられる分野で日本ができる貢献についてどうお考えでしょうか。

日本もODAの額で世界一とか二番という時代は終わり、開発資金の額以外でどのような目に見えた貢献が出来るのかが課題ですが、交通や防災に限らず、日本は幅広い分野で高度な専門技術のみでなく、ソフトの面でもノウハウを持っています。それと連動した政策策定及び施行能力にも高水準なものが多いと思います。そういうものを、世界への貢献の主軸のひとつにしてもらったらいいと思います。例えば日本はローカーボン気候変動対策に関する高度な技術を持っていると言われていますが、日本の技術、および政策ノウハウを他国の成長のグリーン化に役立てることができる、これはひいては世界全体としての地球温暖化対策への貢献ともなると思います。

ほかにも日本には宇宙開発機構(Japan Aerospace Exploration Agency: JAXA)による宇宙技術の民生分野への応用推進という世界に誇るべき活動があります。JAXAは特に防災の面で具体的貢献をアジア太平洋にも広げつつあります。最近はブロードバンドのインターネット衛星を打ち上げました。これはデジタル格差の軽減、教育、それから緊急時の通信などでの利用を、地上での最小限の設備があれば可能にするものです。また、地球各所のCO2濃度の測定などにおいても、世界に冠たる技術力を持っています。日本はこうした技術の恩恵を他のアジア太平洋諸国にももたらすためのイニシアティブをとっていて非常に感謝されていますし、場合によっては人命を救うことにもなります。このように、日本が国際貢献で比較優位を持った典型的分野をよりいっそう推進してほしいと思います。

Q.グローバルイシューに取り組むことを考えている人たちに贈る言葉をお願いします。

既に触れたことにつながるのですが、以前、アフリカから来た同僚が面白いことを言っていました。私が彼になぜ国連で働くことにしたのか聞いたのです。彼曰く「自分は旧植民地出身の人間だが、国連職員になったことで、今あたかも世界を運営しているような気分でグローバルな大問題に取り組ませてもらっている。これはどこかの国の大統領になっても許されないような特権だ。これを許してくれる職場は国連だけなんだ。」考えてみるとこれは旧植民地出身の者だけではなく、誰にとっても言えることです。グローバルな公益追求に参画したいという日本の有意な若者にとり、国連は非常に魅力的な職場を提供してくれるのではないでしょうか。

(2009年6月28日バンコクにて収録。聞き手:彼末由羽、アジア太平洋経済社会委員会事務局職員。宮口貴彰、国連開発計画・アジア太平洋地域事務所職員。写真:Doungjun Roongruang (Moon)。ウェブ掲載:岡崎詩織)


2009年8月15日掲載

 


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