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国連政治局

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国連事務局経済社会局

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西本 昌二さん
国連開発計画 開発政策局長

西本昌二(にしもとしょうじ):大阪府堺市出身。大阪大学卒業後、1971年にハワイ大学大学院で修士号(経済学)を取得。その後、エコノミストとして国連アジア太平洋経済社会委員会(ESCAP)、国連食糧農業機関(FAO)を経て、1980年からアジア開発銀行(ADB)に勤務。2002年9月より、国連開発計画(UNDP)開発政策局長。

Q.国連で勤務なさることになったきっかけを教えてください。

初めに国連のことを知ったのは小学校3年生の頃です。学校の先生が当時完成したばかりだった国連本部ビルの写真を見せてくれて「国連とは各国の代表が集まって会議をするところです」と説明してくれたことがありました。子ども心に、皆が集まって問題解決のために議論をするのは素晴らしいことだな、いつか挑戦してみたいな、と思ったのを覚えています。

大学を卒業して三和銀行(当時)に入行しました。日本がまだ貧しかった時代でもあり、「人」と「モノ」が動く背景にある「お金」を通じて世の中のいろいろな現象を広く見てみたいと考えたからです。特に、三和銀行は「皆様のお役に立つ銀行」であることをモットーにしていたので、今で言う「企業の社会的責任」に関する仕事もできるだろうと期待していました。

当時は公害が大きな社会問題になっていたため、公害対策に取り組んでいる企業に優遇金利を適用する制度、また、よりよい顧客サービスを提供するための印鑑の電子管理や暗証番号の導入を提案しましたが、当時の旧い体制や価値観に阻まれてどれも却下されてしまいました。そうした保守的な体質に幻滅したこともあり、入行三か月で退職しましたが、会計の帳尻を最後の1円まできっちりと合わせてそれに責任を持つという銀行時代に叩き込まれた精神は、公金を扱う国際機関の職員にも求められていることだと思います。

国際機関に勤務することを具体的に考えるようになったのは、三和銀行を退職後、ハワイ大学大学院で国際貿易論や開発学を学び、アジアにおける開発の重要性を実感してからでした。大学院を卒業後、師事していた先生の紹介で国連アジア太平洋経済社会委員会(ESCAP)のバンコク本部でインターンとして働いたのが国際機関への最初の就職です。その後、国連食糧農業機関(FAO)、アジア開発銀行(ADB)を経て、2002年から国連開発計画(UNDP)で勤務しています。

Q.様々な国際機関をご経験されていますが、それぞれの機関の特色や課題についてどう思われますか。

地域委員会であるESCAPでは、国際的な視点に基づきながらも地域に密着した具体的な事業が行われていたので、そうした姿勢には賛同できました。また、当時はアジア太平洋経済協力(APEC)が注目され始めていた時期でもあり、途上国の利益を守るために天然ゴムなど一次産品の価格を調整する仕事にもやりがいを感じました。その一方で、職員のほとんどが政府関係者や専門家であり、フィールドに出ることのない机上の議論が多いと感じることもあったので、FAOに移りました。

FAOでは、ADBや世界銀行など他の国際機関と一緒に事業を形成する投資局に4年間在籍し、その間にアジアはもちろん、中近東、アフリカ、アジアなど様々なところに行きました。主に農業関係の仕事を担当し、灌漑・樹木作物・森林・畜産・水産・加工業・マーケティングなど様々な分野に携わりました。農村におけるインフラの必要性をはじめとする農村開発について考えることもでき、勉強になりました。FAOには非常に細分化された分野に特化し、かつその分野の権威とされるような専門家が集まっていて、質問をすると皆さん親切に教えてくださいました。専門機関としては優れているのですが、それだけに、学術的すぎてなじめないと感じることもありました。

その次のADBには、農業部門に10年、政策部門に12年の合計22年間勤めました。農業部門にいた頃には現場にもずいぶん行ったので、政策立案の仕事をするにあたってその経験が非常に役立ちました。プロジェクトを形成するにあたり、理論だけではなくプロジェクトを実行に移す際の困難さを理解しているか、役人や専門家としてではなく農民の立場に立って開発を考えているか、ということは重要です。また、大学院ではマクロ経済を勉強していたのですが、ADBでは財務諸表を作ったり、ファームバジェット(農家の支出計画)を見たりとミクロの観点からの仕事をすることになったので、初めの半年間ほどは大変でした。しかし、若いうちは先輩の胸に飛び込んで行って教えを請い、吸収することが大事です。こちらが真剣であれば相手も親切に教えてくれますし、一生懸命努力すれば見ていてくれる人が必ずいます。

ADBでは、当初の農業部門から段々と政策関係の仕事に従事するようになりました。当時のADBには、いわゆるハコ物としてのインフラ建設事業に融資をしていればよく、開発戦略などなくてもよいという風潮があったのですが、こうした体制に疑問を感じ、戦略企画を策定することを提案しました。直属の上司には却下されてしまったのですが、これが副総裁の目にとまり、総裁の日本人補佐官の計らいもあって、総裁に直接説明をする機会を得られることになりました。説明の後、直接総裁には具体的なことは何も言われなかったのですが、その数日後に、総裁が「自分の直下に戦略企画室を設置し、西本を初代のActing Manager(室長代理)にする」と理事会で発表したことを後で聞いて驚きました。

こうしてADBの戦略策定に携わることになり、時代にそぐわなくなった戦略・政策を見直すなど、6年ほどの間に50本以上の政策提言書を理事会に提出しました。また、世界銀行の制度を参考に、現場の要請をADBの融資方針に反映させる国別援助計画や3年間のローリングプランを導入し、予算・計画・人事の三つを連動させた体制を整えました。ADBの本部があるマニラでは最先端の情報を入手することは難しかったので、よくワシントンDCを訪れて世界の動きを勉強しました。当時世界銀行の副総裁をなさっていたピチオットさんはもう引退して学者になられていますが、今でも私のよき指導者です。

Q.国際機関で働くことの魅力とご苦労について教えてください。

魅力として挙げられることは、やればやっただけの成果が認められ、フェアな評価を受けられるということです。多様な国や文化にふれて視野を広げることもできます。いろいろな人がいるので、他人との違いを気にせずどんな人ともオープンにつきあえる人ならこういった環境を楽しめるでしょう。また、業務時間後や休日などの時間を組織に拘束されることなく自由に使えるというメリットもあります。

逆に大変だと思ったことは、日本からずっと離れて暮らすことが、私自身というよりもむしろ妻にとってじわじわと精神的な負担になっていったということでしょうか。たとえば同窓会などにもほとんど参加できないので、日本とのコンタクトを重視する人にとってはつらく感じることがあるかもしれません。

UNDPで勤務するようになってからは、理事会など上からの要求や世の中の政治的な流れに対応しながら部下にちゃんと仕事をしてもらえるよう指示を出さなければならず、自分の好きなことだけをやっていればいいというわけにはいかなくなりました。優秀な人材を確保し、皆が気持ちよく働ける職場をつくっていくことも、大変ではありますが私の重要な役目です。また、公式の場では自分の言動が「UNDPの開発政策局長」の言動として重く受け止められるので、その自覚も持つようになりました。

Q.これまでに一番心に残っているのはどんなお仕事ですか。

ADBで勤務していたとき、1997年にアジア経済危機が起こった後にタイ、インドネシア、韓国を援助するために各国政府や世界銀行、IMFなど他の援助機関と一緒に昼夜議論をしたことです。どのような融資を行うか、債権をどうするかなど、とても勉強になりました。また、ADBとしてどう援助するかについて、他の援助機関や先進国からの政治的圧力を受けながらADB内部での調整を行ったことは貴重な経験です。

Q.日本はどのように国連に貢献できるとお考えですか。

明治以来の日本において、どのような指導者がどのような悩みを抱え、どのような犠牲を払ってよい国をつくろうと努力してきたか、という近代化の過程は、日本が世界に対して発信できる貴重な財産だと考えています。現代でも、明治の日本が直面していた問題と同じような問題に直面している途上国がたくさんあります。日本という国や文化の特異性、時代背景の違いなどを考慮しても、途上国の発展を支援するにあたって日本の経験を活かせることがあるはずです。

個人のレベルでは、国際機関での勤務経験を持つ日本人が自らの見聞や考えを広く社会に発信していくべきだと思っています。そうすることで、将来国際社会で活躍する日本人も増えるでしょうし、後輩が育っていくのをみるのは嬉しいものです。

Q.これから国連を目指す人へのアドバイスをお願いします。

いろいろなところに出ていって実力を蓄えることが大事です。渡る世間に鬼はいません。学校で一生懸命勉強すると同時に、いろいろな経験を積み、その過程で疑問に思ったことを先輩にぶつけるエネルギーも持っていてほしいと思います。飽くことのない追究心と疑問を持って「なぜそうなのか?」と自分自身に問いかけ続け、大勢に流されずに自分の考えを持つというトレーニングをしてください。

また、自分の能力を活かせる環境について考えることも必要でしょう。たとえば、ADBは日本が最大出資国であり、歴代の総裁も日本人なので、日本人にとっては働きやすい環境です。一方、巨大な組織である国連で働く場合は、自分の志を活かすことはより大きな挑戦になるといえます。国連の二代目事務総長だったハマーショルドは、「国連は人類を天国に連れていく機関ではなく、地獄に堕ちるのを防ぐ機関である」と言ったそうです。国連のように世界各国の思惑が衝突する場では、政治的圧力に屈することなく自分の信じる仕事を遂行するのが困難なときもあるかもしれません。充実感を持って中身のある仕事をするためには、国際的な広い視野を持ちながらも、自分の仕事の成果が見える土俵で働くことが重要です。

(2006年8月11日、聞き手:大槻佑子、コロンビア大学にて国際関係学を専攻。幹事会開発フォーラムとのネットワーク担当、写真:田瀬和夫、国連事務局で人間の安全保障を担当。幹事会コーディネーター)
2006年9月11日掲載 


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