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「「難民救援」から「平和構築」へ - 国連取材の現場から」
水野 孝昭さん
朝日新聞ニューヨーク支局長

2007年8月31日開催
於:ニューヨーク日本政府国連代表部会議室
国連日本政府代表部/国連フォーラム共催 合同勉強会

 

 はじめに
■1■ 80年代:「黒船」としてのUN - 難民、精神障害者、民族的少数者
     「モラル・オーソリティーとして日本社会を変える役割」
■2■ 90年代:参加する舞台としてのUN - PKOとNGO
     「湾岸戦争をきっかけに、日本の「国際貢献」の場としての国連」
■3■ 00年代:道具としてのUN - 常任理事国入りと安保理決議
 質疑応答

■ はじめに

25年間、いろいろな場面で国連に接してきた。今回は自分の体験に即して、日本と国連について、国連の役割について考えていることをお話したい。

■1■ 80年代:「黒船」としてのUN - 難民、精神障害者、民族的少数者
 
モラル・オーソリティーとして日本社会を変える役割

1980年代は、日本人が国連とじかに接触し始めた時代であり、国連がいわば「黒船」として日本に入ってきて、モラル・オーソリティとしての役割を果たした時代だと思う。

(1) 難民問題

私が最初に国連に関わったのは、新聞社に就職する前の1980年、タイのバンコクであった。1975年にベトナム戦争が終わったが、カンボジアへの侵攻など戦火は続いた。ベトナムからたくさんの難民がボートで流出して、日本に向かうタンカーなどが救援した。だが、日本は難民に来られては迷惑として、そうした人々の上陸を認めずに、追い返した。これに対して「日本は非常識だ」と国際的非難が起きた。当時、ちょうど、東京サミットが初めて日本で開催されるという折であり、サミット議長国が難民を受け入れていないというのでは体面が保てない、ということになった。それで、インドシナ難民を対象に「定住枠」を設けた。最初はベトナム難民を「水難上陸許可」という特別の形で受け入れていた。まだ日本は難民条約に入っておらず、難民を受け入れようという世論も強くなかった。特別な条件下で難民定住枠を設けて受け入れを行わざるをえなかった。

ベトナムがカンボジアに侵攻し、ソ連がアフガニスタンに侵攻するなど動乱の時期だった。そのような地域に行ってみたいとバンコクに向かったところ、ちょうどJVC(日本ボランティアセンター)が活動を開始したところであった。当時、ベトナム、カンボジア、ラオスの難民がタイなど近隣諸国に流入して悲惨な状況になっていた。だが、現場に実際に飛び込んでいったのは、私のようなバックパッカーのような学生か、タイの在留邦人の夫人たちだけであった。日本の社会は国際的な人道援助に関わる経験が乏しかったし、そうした活動をどう継続していくかというノウハウもなかった。集まった人間も援助のプロがいるわけではなくシロウト集団だった。「女子供のJVC」などと揶揄されたこともあった。それでも、日本から「何か手助けをしたい」という人が続々とバンコクに集まってきたため、その受け入れ先を作らねばならない、ということでJVCが動き始めた。

日本からは援助の古着も大量に届いたが、大使館宛に届いたものを実際に現場の難民たちに届ける人がいなかった。米軍の倉庫に溜まっていた古着を仕分けし、どこに何を送ろうか、というゼロのところから話を進めなければならなかった。40度の猛暑のキャンプのカンボジアの難民のためにセーターやコートが送られてきていた。ただ、同じ難民キャンプでもタイ北部の山岳地帯のラオス難民キャンプなら冬は冷えるので、セーターの需要があった。日本の善意があふれてはいたものの、現地のニーズや状況は刻々と変わる。それが日本には十分に伝わっておらず、「何がいま必要で、誰にどう役に立つのか」「どんな手続きで民間援助ができるのか」ということを分かっている人が少なかった。

1970年から80年にかけては、世界にかかわりたいという気持ちが日本の社会で強まってきていたが、まだ何をしていいかわからない、という時代だった。当時はNGOという言葉はあまり広まっていなかった。「Non Governmental Organization−非政府組織」といわれても意味がわからない人が多かった。日本のNGOの走りは、バングラディシュ飢餓の救援キャンペーンであった。1970年、東パキスタン(バングラディシュ)がインドから独立を求めた際に、世界中で救援運動が起きた。ジョージ・ハリソン、ボブ・ディランなど有名なミュージシャンが、NYでバングラディシュ救援コンサートを開いたことが話題になった。日本からも若者が耕耘機を持ってバングラディシュに行ったが、部品や油がなくて役に立たなかった。その反省から「Help Bangladesh Committee(現在のシャプラニール)」という団体が立ち上がった。

JVCも発足当時は(今もそうかもしれないが)、一人一人が何でもやらなければならなかった。日本から援助関係者がきて「難民キャンプを視察したい」と言う。しかし、タイ軍からの入構許可を得る手続きや国連との交渉についてわかる人は誰もいない。そこで、私たちがやるしかなかった。バンコクにあったUNHCRのオフィスに日本から来た寄付金を届けるとか、難民キャンプへ入る許可をとるとか、「まるで旅行代理店だ」と冗談も出たが、そういう実務をやるところからJVCの活動が始まっていった。

このような活動が危険と隣り合わせであるということも、すぐに思い知らされた。タイ・アランヤプラテートで一緒に国境地帯を回っていた仲間が、強盗によって殺され命を落とした。NGOであってもPKOであっても現場では必ずこうしたリスクが伴うが、このとき、リスクや犠牲について組織としてどのように受け止めるべきか試練に立たされた。家族への連絡、マスコミへの対応など、それまでの「善意だけのアマチュア」では許されないということを痛感した。この事件があった際に仲間たちといろいろ議論をした。結論は、犠牲を出したからこそ、その志を受けついで活動を止めてはならないということだった。

その後、NGO活動が日本国内でも広まっていった。JVCが呼びかけて、エチオピア饑餓対策のためスタッフを派遣し、その傘下から「SHARE」が生まれ、「サヘルの会」などもアフリカを重点に活動を進めていった。日本で集まった援助資金をそのまま国際赤十字や国連にぽんと渡すのではなく、日本のNGOがそのお金で現場でプロジェクトを立ち上げていけるようにしたい、その回路を確立したいという発想があった。1984年から89年まで、朝日新聞がアフリカ饑餓キャンペーンに取り組んだ。日赤やNHKや他の新聞社も呼びかけて大変大きな反響を呼んで、朝日新聞だけで4年半で、15億2300万円を集めることができた。これは、大変な援助のパワーであった。盛り上がった時代であった。今、日本の新聞がこんなキャンペーンが打てるのかと考えると、自信をもてないのが情けない。

日本は難民条約に1982年に加入し、条約難民を政府が正式に受け入れるようになったのは大きな前進だった。もっとも、その後、今までに実際にどのくらいの人数を日本が受け入れてきたかというと、まだ恥ずかしいような現状ではあるが。

(2) 84年:報徳会宇都宮病院事件 - 精神病院のリンチ死

これは、宇都宮の精神病院でおきた、精神病院で看護人が患者を殺すまでのリンチが行われたという事件であった。私はこの事件の取材を担当したが、この事件は弁護士らの協力でジュネーブの国連人権委員会において取り上げられた。その結果、日本の人権状況について報告が出た。ジュネーブには国連人権委員会の下に、少数者保護・差別禁止小委員会があるが、その委員会において日本の精神医療には改善の必要があると勧告がなされたのである。その指摘を受け、日本政府も精神衛生法を改正するに至った。

その後も、女性、障害者、児童など、国連の指摘や提唱により日本国内の問題がとりあげられて改善するというパターンが始まった。その背景には、障害者インターナショナルなど国境を越えるNGOの動きがあった。 これは、国連が「黒船」であった時代であり、日本社会の人権状況を改善するために国連を使えるようになった時代の先駆けとなった出来事であった。

(3) 86年:中曽根・単一民族発言とアイヌ民族

1986年、日米貿易摩擦激しい頃、中曽根首相が「日本の方がアメリカよりも、知的水準が高い。」と発言して、これに対し、アメリカ世論が怒ったという事件があった。中曽根首相は、「日本には、単一民族という非常にいい、誇るべき長所がある、と言いたかっただけである。」と弁解した。さらには、80年に日本政府が自由権規約人権委員会に提出した政府報告書に、日本政府が「日本には、少数民族が存在しない」との記載をしていたことも明るみに出た。(この報告書は、日本が国際人権B規約(市民的及び政治的権利に関する国際規約)を批准したために、日本政府が自国の人権状況についての報告書を国連に審査してもらうために作成したものであった(国別報告書審査))。

中曽根首相の発言と、日本政府の報告書の双方を受け、アイヌ民族の人々が怒り、外務省も2度目の報告書を再検討して、最終的には表現を訂正した。その後、外務省も、国別報告書を公にする前に、NGOと協議をするようになったし、NGOも対抗レポートを出すなどして政府とNGOが協議するプロセスができあがった。

このように、80年代の最初の国連というイメージは黒船であった。難民、精神障害者、少数民族と、経済は発展した日本だが人権意識ではまだ遅れていた面があった。国連は日本国内の人権水準を高めるためのモラル・オーソリティとして機能した。

■2■ 90年代:参加する舞台としてのUN - PKONGO
 「湾岸戦争をきっかけに、日本の「国際貢献」の場としての国連

A)緒方さんのHCR選出(9012月)

1990年、イラクのクウェート侵攻・湾岸戦争があった。湾岸戦争の直後、イラクなど中東のPKOを取材した。日本は湾岸戦争でも「金は出すけど人は出さない」と批判をされた。初めてのPKO参加をめぐって、日本では国会で大論争となった。私もイラク・クウェート国境、ゴラン高原、南部レバノンなど、PKOの現場を取材した。
湾岸戦争の後に発足したUNIKOMでは五大国が初めてそろってPKOに参加した。50度を超える砂漠の中に、中国やソ連の将校が米軍将校と一緒にテントで寝泊まりしていた。イラクでの取材では「国連には手足がない」と言うことも実感した。当時、イラクの北部のクルド地区にPKOの一部として「UNガード」と呼ばれる人たちがいた。「UNガード」とはPKOのために新たに発足した組織なのかと思って取材したら、彼らはふだんはNYの国連本部などで警備にあたっている、ただのガードマンだった。
人道危機に対応できるだけの人員やスタッフがいないため、事務総長の判断でイラクに応援に送り込まれていたのである。私たちが国連本部でみている青い制服の警備員までがPKOに駆り出されていたのだ。日本では、国連というと「世界連邦」でもあるかのようなしっかりした大機構というイメージがあるが、組織としては意外に貧弱で、何をするにもどこかの国に頼らないと国連は何もできないということも感じた。

その頃、緒方貞子さんが国連難民高等弁務官に選出された。ジュネーブに取材に行って日本人が国連高等弁務官になるということの影響力を身にしみて感じた。ジュネーブのHCRのオフィスに行くと、日本の記者と知ってスタッフたちは次々と「ミセス緒方はどういう人なのか」と私に聞いてくる。緒方さんが弁務官になったことで、日本の世論を大事にしなければという思いが生まれて、記者への対応も丁寧になったようだった。

「国連に手足がない」ということは、緒方さんも就任早々、実感させられたという。フセイン政権に蜂起して弾圧されたクルド人難民がトルコの山中に大量に逃亡してきた。その人々をイラクに戻すのが緒方弁務官の最初の仕事であったが、「高等弁務官」と言ってもHCRには現地に向かう自前の移動手段すらない。ノルウェーが軍用機を手配してくれて、やっと現場に行くことができたという状況であった。移転前の石造りのHCR本部で緒方さんがオフィスの窓をみながら「この窓の下に飛行機が待機していて、いつでもどこでも飛び出していけたらいいのにね」と話していたのを思い出す。国連の足腰の弱さが如実に伝わった状況であった。

湾岸戦争では、多国籍軍はイラク軍をクウェートから追い出した。だが、イラク国内はサダム・フセインの支配下にあり、クルド民族とシーア派が蜂起したが逆にフセイン政権に弾圧されて、シーア派はイランに、クルドはトルコに逃げていた。 HCRは難民の帰還に際して、フセイン政権の迫害から帰還民の安全を確保するため、多国籍軍の軍事力、英米の空軍力に頼った。それが、イラクの北部と南部に設定された「ノーフライ・ゾーン(NFZ)」だった。人道支援と軍事力行使がからみあった局面で、国家主権を制限する「人道介入」のさきがけだったと思う。英米の軍事力に頼りすぎれば本来の人道目的がゆがめられて、大国の思惑に国連が左右されることになりかねない。といって、人々を保護できる十分な軍事力がないと、ボスニアやルワンダのように国連が設置した「安全地帯(セイフ・ヘブン)」で難民が虐殺されレイプされるという悲劇を招くことになる。このジレンマは今も解けていないと思う。

もう一つ現場で思ったのは、軍人であれ、NGOであれ、記者であれ、ひどい人道危機が起こりかねない状況では、外国人の存在(プレゼンス)そのものが「国際社会の目」となって、暴力や人権侵害を抑制するのに役立つということだ。そうした現場から国連やNGOスタッフが撤退し、プレスもいなくなったら、どんな虐殺や人道侵害が行われても外の世界には伝わらず、わからないままになってしまう。戦乱に巻き込まれるというリスクを背負っても、「現場にいる」ことの重み、無防備の民衆を守るために国際社会のモニタリングを続ける必要性を感じた。援助物資を配布する援助だけでなく、外国の人がそこに残っているというだけで、現地の人にはたいへんな安心感を与えるのだ。もちろん、それが機能するのは、当事者がある程度の常識をわきまえていて、国際社会の反応を気にすることが前提になる。

92年から93年には、アフガニスタンとカンボジアの取材に行った。それぞれソ連と、ベトナムの侵攻を受けた国である。93年、カンボジアではPKOが総選挙の実施までを担当した。その後もいろいろ問題はあるが、いちおう安定した政権を作りだして経済も発展して、ASEANの一国となって「成功モデル」となったのがカンボジアであった。
それに比べて、見捨てられたのがアフガニスタンであった。私が92年春に取材に入ったときには、ソ連のかいらい政権だったナジブラ政権が、国内のムジャヒディンに攻撃されて倒れた直後だった。パキスタン国境にいたムジャヒディンの各派が一斉に首都カブールを目指して我先に争って、今度はムジャヒディンの間で内戦が始まった。さながら日本の戦国時代に各武将が京都を目指したような有様だった。カブール市内は各地区ごとに異なる武装勢力が支配におさめて勢力争いを続けた。カラシニコフを手にしたゲリラ兵同士が白昼通りでにらみあって、目の前で撃ち合いを始めたりした。ナジブラ元首相は国外脱出する機会を失って、国連のコンパウンドに逃げこんでいた。彼はそのまま何年も国連施設にかくまわれていたが、タリバンがカブールを占拠した時に、彼は引き出されて、処刑されてしまった。本来であれば、どこかの時点でナジブラ元首相を安全に第3国に脱出させるべきであったが、国連にはそれができなかった。ここでも私は国連の力の弱さ、もっと言えば、国際社会の冷淡さと無関心さを感じた。
余談になるが、私が92年春、アフガン取材の前に隣国パキスタンの首都イスラマバードに滞在していた時、ブトロス・ガリ事務総長もイスラマバード入りをして同じホテルの同じ階に泊まった。あの時、もう少し国連が調整役を果たして、ナジブラ政権打倒後の調停役を果たして入れば、今のようなアフガンの混迷はなかったと思う。もちろん、それは国連というより、ソ連とアメリカの責任が大きいと思う。ちなみに、ソ連のコーズイレフ外相(当時)は、そうした戦火のカブールにも特別機でやってきて、ムジャディディ師らゲリラ指導者と会談した。だが、それは「ソ連への賠償請求をしない」という言質を新政権から取るためだった。「おみやげ」で、ムジャヒディンに捕虜になっていたソ連兵を連れて帰っていった。

国連の限界や非力さに対していろいろ厳しい指摘をしてきたが、それは国連の活動への期待の裏返しであって、それを否定するものではない。難民帰還だけとっても、ボートピープルからクルド人まで何百万人という難民を帰還させて、自国での平穏な生活に戻る手助けをした国連の活動は大変な意義がある。カンボジアのPKOで、キャンプにいた難民たちが、当面の食糧や作物の種、農器具など自立するための身の回りの品を配給所で受け取って、牛車や舟で故郷の村に戻っていくのに同行したことがある。怖いのは地雷だった。猛スピードで我々を追い越していったバイクでは、地雷で足首を飛ばされた男の子が泣きながら父の背中にしがみついていた。病院に運んだようだが、十分な手当ができたのだろうか。
PKOというと軍の役割に目がいくし、日本の議論も自衛隊の参加についての議論が中心だった。だが、カンボジアでは「複合的PKO」の活動が様々な側面で展開されていた。たとえば、選挙管理にきていたのはカナダの自治体職員だった。日本でも選管がやる仕事だから、軍人である必要はない。人権部門では監獄を訪問するプロジェクトがあった。政治犯が閉じこめられていた監獄をPKOのスタッフが定期的に訪問していた。それはリンチ死事件を起こした日本の精神病院で見た監禁室とそっくりの独房だった。重い鉄の扉で閉ざされた、せまい日の当たらない冷たいコンクリートの空間で、足かせがあった。最初に訪問したときには、骨と皮になった幽霊のような姿の政治犯が中から出てきたという。ベトナム人ばかりが逮捕されている監獄などがあるなど、一週間に一度と定期的に監獄を訪ねていくことで問題点が見て取れた。ここでも「UN」という看板を背負った外国人が定期的に監獄を訪ねることが、人権侵害に対する抑止になっていた。地味であっても、人々に役立つ活動はたくさんある。シビリアンの役割も重視しなければならない。

もっとも、現地で活動する時には、安全の確保が必要になる。邦人文民警官の高田さんがカンボジアで殺された。また、UNVで選挙監視に着いていた中田君もカンボジアで殺された。国連の組織として、安全の確保が十分であったかというとそうはいえない。中田君は、日産のトラックに乗ってポト派の検問を通ろうとして、そこで、後ろからカラシニコフで撃たれた。中田君はそのとき無線で「ヘルプミー」と叫んでいたが、そのとき国連のスタッフは、「なぜ彼は『メーデー』と言わなかったのか」という指摘していた。緊急時に助けを求めるコールサインは「メーデー」と決まっていたが、中田君はそれを知らなかったのだろう。そんな基本的な安全訓練すら十分に受けていなかったのが、国連ボランティアだった。自衛隊がタケオという比較的安全な地域に配置され、文民警察官がシエムリアップという地方都市にいて、丸腰のボランティアの若者がいちばん危険な村々を回っていたというのは、おかしいと感じた。

■3■ 00年代:道具としてのUN - 常任理事国入りと安保理決議

03年8月に、イラクの国連事務所が爆弾テロの標的となり、セルジオ・デメロ国連事務総長特別代表が殺された。デメロ氏は将来の事務総長候補といわれた人材であったし、国連自体がねらわれたということが、大変な衝撃だった。今回のイラクまでは、危険な現場といっても本人が注意をはらえば、ある程度避けうるはずだった。 しかし、援助者でもジャーナリストでも、外国人であることが逆に誘拐やテロの標的となるということになると、前提が変わってくる。今まで話してきた、そこに存在することに意味があるという「外国人の目」、モニター役が果たせなくなってしまった。今のイラクのような状態については、どうしたらいいのか、私も回答がみつからない。アフガンでも韓国人ボランティアが誘拐されたが、今後もこういう事例は各地で増えるのだろう。

(1) ちぐはぐな常任理事国入り戦略(05年)

00年代の今は、国連を「道具」として使うべき時代だと思う。日本が国連をどこまで使えているのか。「常任理事国入り」への戦略を含め、国連へのアプローチの仕方にちぐはぐな面があったのではないかと思う。日本が国家としてどういうアピールをしていくか、その存在意義をどういう局面で示すかという点でも問題があったのではないか。 たとえば常任理事国を目指すといっている時に首相が靖国神社に参拝して中国・韓国と対立したり、慰安婦問題で首相がいいわけまがいの発言をして世界中の女性を怒らせたりしている。

常任理事国入りを目指したG4決議案は3分の2の支持を確保できないとの判断で票決を見送ったが、日本代表部の票読みでは賛成は110数カ国に達していたという。国連でみていると、国際社会の日本への好感度は確かに高いと感じる。その好感度は戦後60年かけて、日本の世論の平和への思いや援助の実績でつみあげてきたものだ。それを思慮の浅い政治家の言動でどれほど損ねたことだろうか。

先に話した難民や精神障害者、少数民族の問題など80年代の日本は国内問題であっても国連の指摘を受けると、政府はそれなりに対応した。その対応は決して十分ではなかったが、国連人権委員会では「さすが日本」と賞賛する声が出たという。裏を返せば、世界には国連の勧告を受けてもどこ吹く風と無視して開き直っている国が(5大国を含めて)多いと言うことだろう。歴史問題や人権問題については私たち自身が主体的に取り組むことで、日本が国際社会の模範例(モラル・エクザンプラー)になってほしいと思う。

常任理事国入りについては「分担金を払っているのだから当然だ」といったステータス・シーカー(地位追求)の論理になっては、他国の反発をかうだけだ。国連への資金負担では日本は胸をはれるが、では要員提供ではどうだろうか? 国連への貢献ぶりひとつとっても、様々な評価の物差しがある。192カ国がそれぞれの物差しを振り回して自国に有利になるように駆け引きしているのが国連という舞台だ。日本という国は、経験からみても実績からみても、常任理事国になればそれなりに良い仕事をするだろう。ただ、世界の安全保障を維持していく責任を持つ国になるためには、もっと視野を広げる必要がある。たとえば、国際的な人道危機として焦点になっているダルフールPKOでは、日本では参加どころかまともな論議すら起きていないようだ。国連を「神棚に奉っておく」のではなく、日本が国連を利用していかなければならない。

(2) 2本の北朝鮮制裁決議(06年)

日本は、北朝鮮に対する制裁決議を、昨年(2006年)7月のミサイルと10月の核実験を受けて安保理で採択させた。これは、日本が初めて安保理を日本の安全保障のために使った行為であった。この制裁決議は、安保理において非常任理事国も含め全会一致で通った。ただ、制裁決議をあげたものの実際に制裁品のリストを提出するなどした国はさほど多くはない、しかし、こういった制裁決議は一回採択されると、実はいろんなところに効いてくる。国連で制裁決議がでると、直接の経済制裁までいかなくても、かつてのイラク、ジンバブエ、ミャンマーなど、いろんな側面で扱いが変わってくる。
最近の例はUNDPの援助問題があった。今年の初め、UNDPが北朝鮮でドルで現地の職員に給料を払っていることが問題になり、国連制裁を受けている国に「開発援助」を続けるのはおかしいという議論になった。UNDPはプロジェクトを縮小して、事実上、開発援助は中止になった。これは、北朝鮮に大きな影響があっただろう。ただ北朝鮮のような閉鎖的な体制の国には、むしろ国連というパイプを通じて国際社会の風をあてた方が良いという意見もあるだろう。

ただ制裁対象国に開発援助を行うのはおかしいかもしれないが、水害被害などへの人道援助はやるべきであると思う。日本の人道支援は名目程度にとどまっている。しかし、人道援助は本来、政治と切り離すべきである。だから「人道」なのだ。日本がそうした姿勢を示すことは、たとえば拉致問題を国際社会に訴えるときに効いてくるであろう。拉致問題は絶対に許せない国家犯罪だ。ただ、本当に解決するには、北朝鮮の国内で調査をする必要がある。ベトナム戦争の後、米国とベトナムの間では長く捕虜・消息不明米兵(POW・MIA)の問題で紛糾した。米国は、2000人以上もの消息がわからない米兵の消息がつかめるまで、国交は回復しないといっていた。そして、実際に国交回復の前から、MIA事務所をハノイに設立して、ベトナム側と話をつけて自分たちでベトナム国内を捜索し回った。ベトナム政府が米兵捕虜を隠しているのではないかという猜疑心を持っていた米国の保守層も、MIA事務所の活動実績をみて次第に納得していった。
日本も真剣にこの問題を捜索したいなら、平壌などに連絡事務所を開くことなどが必要となるだろう。拉致問題についても、普遍的な「人権」という立場で臨まないと国際的な支持は得られない。国連には強制失踪者に関する条約もあるし、中南米など強権独裁政権時代の拉致・失踪の被害者がたくさんいる。各国ともっと連携して、この問題への共感の輪を広げていくことが大事である。拉致問題についても、国連という道具を前向きに利用し、人権問題という各国共通の基盤を作って北朝鮮に迫っていくべきである。

(3) ハコとしてのUN - 中身に何を入れるかは加盟国次第

私は、国連は「箱」のようなものだと思っている。箱に何を入れるかは加盟国、つまり私たち自身が決める。宝物にもなりうるし、爆弾を入れれば危険なものになる。何もいれなければ、ただのカラ箱だ。私たちが国連を通じて何をやりたいのか、その世論を反映して各加盟国がどのように国連を使うのかによって、国連の役割、機能が決まってくる。

いま国連で注目している「芽」の一つに、「人間の安全保障」がある。国家の枠組みで「上から」安全保障をとらえるのではなく、一人一人の人間の生存を保障するという草の根の視点から「安全保障」をとらえ直そうという考え方だ。国連に「人間の安全保障課」ができて、基金も設立されて、日本政府がほぼ全額を出してきた。日本の外務省にいた田瀬和夫氏が、今、その国連の人間の安全保障課長になっている。やっている個々の事業は、日本政府が「2国間の無償協力」でやっている事業と内容では重なるものがあると思う。ただ、日本政府だけが主体なら、たぶんODAの大海のひとしずくに過ぎず、国際的にもそれほど注目を浴びなかっただろう。

しかし、国連本部に日本が実質的なスポンサーとなってユニットを立ち上げたことで一定の存在感がでている。田瀬さんは友人でこのフォーラムの幹事でもあるので、評価がひいき目になってしまうが、国連という大官僚機構の隙間をついて「草の根」の援助される人からの視点を失わず、現場優先を徹底しようとしている。国連でのある種のカルチャー革命を起こそうとしているのだろうと好意的に解釈している(ほめすぎかもしれませんが)。外務省のデスクに座っていた田瀬さんがNYにきて審査をしているわけで、同じ人間がやっていても「国連」ということで活動の範囲や視野が広がるし、注目も高まる。日本の外務省も「彼がやるなら」と安心してバックアップしていける。日本から見ると安心ができるし、日本的なきめ細かさを生かして国連の強化にも役立っている、とてもいい例だと思う。まだ、国連の援助機関のなかでは、ニッチ(すき間)産業で規模も小さい。「人間の安全保障」でしかできない独自の役割は何か、それを目に見える実績で示すことがこれからの課題だろう。日本が国連という舞台で育てた「芽」をのばしていってほしい。

また、注目していることに、日本が議長国に就任した平和構築委員会、PBC(Peace Building Committee)がある。日本は、1年間議長を務めていくことになった。 難しい紛争については安全保障理事会がやるから、それ以外の手が回らないところを任される。せっかくPKOで国造りをやったはずなのに紛争再発で後戻りされてはたまらない。そうならないよう、PKOのリハビリが終わった後も、てこ入れを続けてほしい、というのが発足の趣旨だ。いわば「国際社会の落ち穂拾い」のために作られた組織、といったら口が悪いだろうか。ただ、安保理と総会がそれぞれ決議をあげて作った組織なので、国連内での正統性はしっかりしている。発足したばかりなので各国とも何をやるのか、注目している。「役に立たない機構をまた一つ増やしただけ」と酷評されることで終わるか、「PBCに持ち込めは紛争再発のリスクは抑えられる」という期待感を高めることができるか、議長国としての日本のリーダーシップが非常に重要である。安全保障の問題で中心となって動いているのは安保理であり、権限もパワーもある。だが、とても忙しい。世界中の紛争が次々飛び込んできてくるし、PKOについての処理もしなければならない。安保理の日程の半分くらいをPKOについての議論に割かなければならない状況である。また、安保理では議長国は毎月変わるし、事務局機能が安保理には存在しない。このように、多忙を極めている安保理では、各地の紛争を止めるのに精一杯で、その後の平和構築まで手が回らない。そこで、安保理との役割分担を求められるようになるのではないか。PBCでは今のところ、シエラレオネとブルンジだけを取り扱っている。だが、本当にPBCが「使える」という評価が米国などから得られれば、安保理からかなりの案件がPBCに回ってくることも考えられる。そのときに、日本のような民生支援のシビリアンパワー、能力を持っている存在がとても役に立つのではないかと思っている。80年代が難民救援、90年は国際協力、2000年代は、21世紀の平和構築・平和定着というキャッチフレーズがあてはまるよう、日本が積極的に国連を使い、国連もいい意味で日本を使っていくのがよいと思う。それが、広い意味で日本の国益につながるだろう。

現在の国連について「軍縮」「人権」といった、私にとっては国連の原点みたいな部分の活動が停滞していることが残念でならない。ブッシュ政権の姿勢も問題だが、NPT再検討会議も成果をあげていないし、ジュネーブの人権委員会を格上げしたはずだった人権理事会も、結果をみれば組織をいじって改悪になってしまったようだ。国連には世界の人々に希望を与えるモラル・オーソリティとしての存在意義を取り戻してほしい。国家(Nation・State)が助けない人を助ける、国家に迫害されて国内では発言できない人の声を伝える、そんな存在であってほしい。既存の国家の枠からはみ出てしまう人の数は、グローバル化で増える一方だ。国際社会がそういう人々をどう守っていけるかという点が、21世紀の国連の役割ではないか。

先に紹介したアフリカ饑餓キャンペーンで、日本の一新聞社が15億円の募金を集めることができたというのは象徴的だった。日本はそういう社会のはずである。国連には人々の共感を呼び起こすような旗印を掲げてほしい。日本社会の善意の貯水池(Reservoir)と国際社会の現場とを効率よく結びつけていく。そのパイプ役を務めるのが、国連職員やNGOスタッフ、ジャーナリストや研究者など、ここに集まった皆さんのような方々だと思います。

質疑応答へ

 

議事録担当:猿田



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