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照井 加奈子さん
国連開発計画(UNDP) コソボ事務所
人間の安全保障プログラム・アナリスト

 

照井 加奈子(てるいかなこ):秋田県出身。秋田大学教育学部で声楽を学ぶ。卒業後青年海外協力隊員としてシリアで音楽教育に従事、その後米国ペンシルバニアのインディアナ大学大学院にて公共政策修士取得。修士課程中に国連人道問題調整部(OCHA)にてインターン。2006年よりUNVコーディネータとしてコソボに勤務する。2008年6月より現職。

Q. 国連で勤務することになったきっかけを教えてください。

中学校時代の先生が青年海外協力隊を経験した方で、もともと協力隊にはたいへん興味をもっていました。また高校生のときにボスニア紛争があり、サラエボの情勢をテレビで見てさらに国際社会に関心を抱き始めました。そういう経緯の中で、漠然としてではありますが、国連で働いてみたいという思いはあったと思います。

一方、大学では教育学部で声楽を専門とし、音楽教師を目指していました。それが大学を卒業したころ、音楽教師としてでも青年海外協力隊に参加できることを知り、協力隊の一員としてシリアに行きました。

シリアではパレスチナ難民キャンプで小中学校の先生をしていました。当時ちょうどインティファーダ(民衆蜂起)の時代で、先生たちがはやし立てる中、小学生がイスラエルの国旗を燃やし、罵声を発していたんですね。それを見て子ども達がかわいそうだと感じました。彼らは自分がやっていることがわからずに、ただ大人の利益に振り回されているように思いました。この協力隊としての経験は国際関連の仕事に進む大きなきっかけとなりました。協力隊の後、アメリカの大学院へ進学し、国際関係、特にパレスチナについて勉強したいと思ったんです。

大学院時代は、当時一番お世話になった教授がエジプト人で、さらに中東関係に興味を持つようになりました。そして在学中はパレスチナ支援のNGOと、国連事務局人道問題調整部(OCHA)でインターンとして働きました。OCHAにいた際には国別分析情報をまとめる仕事をさせて頂き、中東、ネパール、パキスタンなどの地域の担当官のもとで働いておりました。ここでの仕事にたいへん興味をもち、どのようにすれば関連した仕事をできるのか悩んでいたところ、研修後すぐくらいに国連ボランティア(UNV)コソボでの人員を募集しているという話を聞きました。それに応募し、UNVコソボ国連事務所のプログラム調整官として当地に来たのが始まりです。

Q. 現在の仕事はどのようなものでしょうか。

最近スタートしたばかりなのですが、UNDPのプログラム・アナリストとして、コソボにおける人間の安全保障基金による国連合同事業を担当しています。また、近藤哲生副代表の指揮下で、UNDPコソボと日本外務省のあいだの協議・連絡を担っています。

Q. すでにUNDPで2年働いてらっしゃいますが、お仕事の魅力とは?

現地の人と暮らす時間などは協力隊と比べると少ないですが、しかしコソボの人と暮らし、その人たちとかかわり、現場を目で見て耳で聞けば、何が問題で何が必要なのかがよくわかる。これが魅力ですね。またいろいろな国から来る国連ボランティア要員の異なる考え、異なる価値観、異なる文化を知ることも魅力だと思います。ああ、こういうこともあるんだ、こういう人もいるんだ、という発見が楽しいですね。

2006年からUNVのプログラム・オフィサーとして仕事をしてきて、コソボの青年団体とかNGOの若い人たちと働く機会がたくさん得られました。例えばUNDPと現地NGOが合同し、去年の夏に「少年自然の家」のようなプログラムをやりました。毎日そこに出向いて、40人くらいの16歳から22歳くらいの若者と長い時間一緒に過ごして、議論したり話し合ったりするにつれて、だんだんと彼らの価値観を知ることができた気がします。その経験が、現地の教育省などと一緒に働くときにも大きく役に立ちました。

どうしてもコソボというと紛争ですべてが破壊されたというイメージ、それから軍隊やマフィアなどのマイナスのイメージがありますよね。だから最初若者たちは何を考えているのだろうと思っていたのですが、だんだん彼らと接点が増えてくるにつれて、ああ、日本の若者とあまり変わらないし、若者はどこも同じなんだ、ということを再確認しました。ただ、ここでは機会が多くはない。学校や余興など活動の場も当地では限られていて、そうした状況におかれている若者はかわいそうだと思いました。もちろん、この人たちはここで生まれて育っているのであって、外から来た者がかわいそうだと思うこと自体間違いかもしれないのですが。

Q.今までで一番大変だったことはなんですか?

コーディネータ−として、UNV要員のみならず国連機関や政府機関の幹部とも話す機会が多いのですが、私がその場に出て行くとどうしても若輩に見られがちです。また、女性でありアジア人でもあることから、蔑視を感じたこともあります。特に最初の頃はかなりきつかったです。ですが、2年前共に働いたことで、今ではカウンターパートの教育省を含めて多くの人が私がどんな人間だか知っているし、認めてくれるようになったと思います。お互いの理解を深めるには時間と辛抱強さが必要ですね。

Q. 現在のお仕事の中での課題はなんですか?

いろいろありますが、一つ例を挙げると、同期でUNVとして入ってきた人たちは、現在UNDPの同じ契約で継続事業を担当しています。一方私はこれまでのUNVの調整業務とは全く異なる新しいプログラム「人間の安全保障基金」の事業のために働いています。その新しい環境のなかで、新しい人間関係と信頼を築いていくことがチャレンジですね。

Q. 現在のコソボはどう照井さんの目に映っていますか?

コソボの方はシャイですが、私のまわりは本当に良い方ばかりで、ありがたく思っています。ただ、教育の現場は現在崩壊していると言われています。例えば、当地では学校、教師の数が大変少なく、2部、3部制となっていることが多いのです。そのため、とても小さい子どもが大きなランドセルを背負って、冬の夜に歩いている姿を見ます。そのような場面に遭遇すると、これはなんとかしなければと思います。

また、若者が学校教育や子どものために教師になろうと思ったとしても、給料も低水準で職の枠も少ないのでその夢をあきらめざるを得ない。支援によって学校をつくっていただいても先生がいないのです。先生を対象にした訓練、ワークショップを実践しようとしてはいるのですが、物が足りないため、実施できる状況ではありません。これらは改善されるべきだと思いますし、支援する側も支援される側も考えていくべき課題かと思います。

Q. ご家族は照井さんがコソボで勤務されていることをどう受け止めていらっしゃいますか?

夫はコソボ人なんです。ニューヨークで出会い、アメリカからこちらに来る前に結婚したのですが、出会ったときはコソボってどこだろうというくらいに何も知りませんでした。まさか自分がコソボで働くとはそのときは思ってませんでしたね。

日本の家族は、私が外国というとシリアとかコソボとか、ほとんど聞いたことのないようなところか、世界の格納庫のように危ないところばかり行くので、初めは憤慨していましたが(笑)、今は納得して応援してくれています。母も一度日本から一人でコソボまで会いにきてくれました。実は母が夫に会ったのはそのときが最初だったんですよ。

Q. コソボと日本との関係はどうなのでしょうか、また日本が貢献できることは何でしょうか?

コソボは親日度がとても高いです。日本人だというとどこでも歓迎されます。一部での反米、反中感情や、ロシアとの複雑な関係がある中で、日本はたいへん中立的な関係、裏表のない関係をコソボと保ってきているんです。紛争後、いろいろなところにさまざまな資金拠出国が関与して復興支援をしていますが、日本はその中でも一番大きな額を拠出していて、それも僻地での学校建設など、人々が本当に必要とする、持続可能で質の高い支援をしてきています。こうした実績がコソボの人たちにはとても感謝されていて、ほかの国や機関では難しいことでさえ日本が言えばできてしまうことがあるくらいです。

その意味から、ここコソボで「日本しかできない」ことも多くあると思います。たとえば住民参加型の地域開発、青年の活動促進とか人材の育成、女性の職業支援や意識改革、教育などのソフト面など、日本の貢献できる余地は十分にあると思います。

Q. 将来どのような分野でキャリアアップをされていきたいですか?

以前は日本の支援の末端の協力隊としての仕事をしたのですが、現在は国連で支援を受ける側として仕事をしています。この双方の経験から、日本の支援という分野に大変興味をもつようになりました。将来的には、途上国などの国際支援にかかわる分野、人間の安全保障や草の根などで仕事をしたいと思っています。国連かどうかということにはこだわりはなく、日本が支援できる分野で仕事がしたいと思っています。

Q. 国際社会で働くことをめざす若者に対してのメッセージをお願いします。

私はかなり規格はずれなのですが(笑)。もともと教育のなかでも音楽が専門で、国際関係で働くことを目指す方たちとは少し違う経歴かと思います。しかし回り道したとは思っていません。国連をめざしてその分野の専攻で勉強し、関係のある分野で実務経験を積んで、一直線に国連に入ってくるという道もあるでしょうが、そうではなく全く別の方向から国連に参画するという道もあると思うんです。私の場合、ずっと国連は面白そうだと思っていましたが、音楽教師を目指していたわけですから国連に入るためだけに努力をしたわけではないし、まさか自分が入れるとは思っていませんでした。

私の場合、もともとは協力隊で音楽を教えるためにパレスチナへ行って、キャンプの子どもたちを見ているうちに開発に興味を持つようになり、その分野の勉強をしてみたいと思うようになったわけです。なかなか長期的な人生計画を設計することは難しいと思いますが、それでも目標を持っていろいろな経験をすることによって、自分のやりたいことが見えてくるとのではないかと思います。

(2008年7月3日プリスティナにて収録。聞き手:中山莉彩、幹事会勉強会担当。写真:田瀬和夫、国連事務局人間の安全保障ユニット課長、幹事会コーディネータ。ウェブ掲載:菅野弘、イェール大学林学・環境大学院)


2008年11月9日掲載

 


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