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吉田 真紀さん
国連事務局・政務局

 

吉田真紀(よしだ・まき):立教大学文学部英米文学科卒業。通訳・翻訳業、マレーシア航空の広報担当を経て、ラジオDJに。9年間に渡ってJ-WAVE『クラブ・ド・トキオ』、FM横浜『ザ・ボイス』、などの人気番組に出演し、エリア最高の聴取率を記録。その後、グアテマラ、サンカルロス大学語学研究所留学。同時に、グアテマラ初の日本人DJ(パーソナリティ)として人気ラジオ局FM95に出演し、有力紙Siglo21の英語版のコラムニストとして執筆。現地に赴任していた国連職員と出会い、共にコソボに滞在した後、ニューヨークに転居。日本へ向けて、J-WAVEの番組を3年間放送。2003年、シエラレオーネに転居し、通訳・コーディネーターとして、日本の取材陣に同行し内戦の傷跡をリポート。2007年より国連勤務。語学力(日本語・英語・スペイン語・ポルトガル語)を生かし、儀典局のリエゾンとして各国代表部の国連本部内での活動をサポートした後、2008年8月より政務局勤務。趣味は料理とラテンダンス(サルサ、メレンゲ)。

Q. 吉田さんはラジオ界でスペイン語を操る伝説のDJ、桑田真紀として知られ、数々の名物番組を手がけてこられました。30歳でラジオDJに、46歳で国連職員になられたとのことで、非常にチャレンジに満ちた人生ですね。

そうですね(笑)。でもチャレンジというよりは、流れに乗って逆らわずにここまできてしまった感じです。実はDJになる前はマレーシア航空で広報の仕事をしていたのです。その時に、知人にアメリカで制作したラジオ番組の日本への売り込みを頼まれ、ラジオの制作会社に電話をしていたところ、「あなたの話し方が気に入ったのでデモテープを送ってくれないか」と言われ、トントン拍子でラジオの世界に入ることになりました。私、人に出会うことの天才なんですよ。いつも素晴らしい出会いに恵まれ、その方たちが導いて下さってその流れで生きているんです。

Q. スペイン語をお話しになることから、ラテン歌手のリッキーマーティンをはじめラテン系のゲストは必ず吉田さんが担当されていたそうですね。しかしその後一度ラジオの仕事をお辞めになり、グアテマラに行く決意をされたのはどうしてですか。

1999年に日本を離れたのですが、海外に勉強しに行こうと決意したのはその3年前の1996年です。ペルーで日本大使館の人質事件があった時で、そのニュースを見ていて、毎日同じような映像と一面的な報道だけでちゃんとした情報が伝わっていないと感じたんです。実際ニュースを見ていたまわりの人たちは「ペルーって怖いよね。行かない方がいいよね。」くらいにしか思っていないようでした。果たしてこのままでいいのか、誰か語学がわかる人間がきちんと取材をして中身のある情報を伝えるべきではないだろうかと考えたときに、「あ、それ私だ」と(笑)。だからその場でスタッフに、南米に行って一年間勉強したいので休みがほしいとお願いしたんですが、「冗談でしょ」と取り合ってもらえませんでした。しかし、これがきっかけとなってそれからずっとこのことを考え続け、3年越しで職場と交渉してようやく留学することとなりました。

Q.いざ留学してみていかがでしたか?

実際に行ったのはペルーではなくグアテマラでしたが、そこで見たもの聞いたものはすべて新鮮な驚きでした。同時に日本の知名度の低さに愕然としました。国連を通じて、あるいは政府開発援助(ODA)を使って大きな貢献をしているし、日本の車もたくさん走っているにもかかわらず、「日本には車はあるの?」なんて聞かれるんですよ。ちょうどその時期、ニューヨークの国連本部から出向していたブラジル人の彼と知り合ったのですが、ブラジルはサッカーで世界的に有名なので、どこへ行っても「ペレ、ロナウド」と歓迎されるんですよ。うらやましかったなあ。ここでもメディアと縁があった私は、グアテマラ史上初の日本人DJ、そして新聞のコラムニストとなり、毎日3時間の放送、そして週一回の記事を通して自分なりに日本をアピールしました。

Q.国連との出会いはブラジル人のご主人を通してだったのですね?

そうです。彼は私にとってユニセフの年賀状以外の最初の国連との接点になりました。グアテマラのあと、彼の仕事についてニューヨークやシェラレオネ、コソボにも行くことになります。それまでは国連はすごく遠い存在だったのですが、国連の人と会うようになって身近になりましたね。国連には小学生の頃から興味がありましたが、実際に試験を受けたのは、シェラレオネからニューヨークに戻って来て彼と別れ、幼い子どもを抱えてこれからどうしようかという時でした。無事試験には受かったものの、なかなか仕事のお話がこなかったので、もう日本に帰ろうかな、と思っていたところに連絡が来たんです。

Q.国連の中で初めて就いた仕事は何でしたか?

広報局(DPI)のメディア対応の仕事でした。総会のメディア対応要員として雇われました。その後、国連平和維持活動局(DPKO)でヨーロッパ、ラテンアメリカ地域の担当になりました。また、その次には総会・会議管理局(DGACM)の儀典部門(プロトコール)に異動し、各国代表のリエゾンをしています。どの仕事も語学を活かしてたくさんの人に対応して行くという意味で私にはぴったりだと思いました。 (注:吉田さんは2008年7月に政務局に異動されました。)

Q.民間企業で長く勤務されたあとの国連ですが、どんな印象を持ちましたか?

民間企業にいた時は、あくせくして少しでもたくさんの仕事をしなきゃという感じだったのですが、国連では少し落ち着いて周りとのバランスを見ながら働くものなんだなという印象を持ちました。民間ではどんどん突っ走っていて、自分が先に立たないといけないみたいなことがありますよね。でも国連ではいかに協調していくかが大事だということを学びました。

Q.国連での仕事でやりがいや喜びを感じる瞬間はどんな時ですか?

儀典部門の仕事としては先日ローマ法王がニューヨークにいらしたのが印象に残っています。そのすべてが終わった瞬間はやはり達成感がありましたね。広報局で経験した国連総会、平和維持局で経験した世界各地との交信、そして国連職員になってから日々行っているネットワークづくり、すべてを楽しんでいます。

Q.逆にお仕事でたいへんなことは何でしょうか。

それぞれ違うバックグラウンドで価値観も違う人たちが協調性を持って歩幅を合わせていかなければいけないというのは、国連で一番たいへんなところであり、一番面白いところでもあり、私が日々学んでいることでもあります。日本人の間ではいいと思われることが、他の国では良しとされなかったりすることもあるんです。いろんな国の人が混ざっているからこそ楽しいし、でもそれだからこそ難しい。

Q.いま吉田さんが世の中に伝えたいことは何ですか?

私は日本人を元気にしたいんです。日本人の価値観では「これはやっちゃダメ」とされているものも、世界ではOKなものもいっぱいある。考え方を柔軟にして、新しいもの、おもしろいものにたくさん出会ってほしいですね。今回のインタビューであえて私の年齢を強調してもらったのも、数字に縛られず、何歳になってもやりたいことをやってみよう、という意味で少し参考になればと思ったからなんです。

Q.世界に羽ばたいて仕事をして行きたい若者へのメッセージをお願いします。

勇気を持って諦めずにぶつかってほしい。私は違法なことをしろとか、何かに逆らえと言っているわけではないんですが、例え上の人に否定されたことでも、もしかしたらいい形で物事が成り立つことがあるかもしれません。前例がないからダメだと言われてそれに従っていたとしたら、マザーテレサもいないわけです。自信と勇気と希望を持ってチャレンジしてほしい。たとえそれがうまくいかなかったとしても、そこから何かを学んで、また違う形で、次のステップにつなげていけばいいんです。

Q.今までチャレンジングな人生を歩んできた吉田さんですが、これからは何に挑戦したいですか?

国連とメディアを合体させて何かやっていきたいですね。それが、私、桑田真紀として国連に貢献できることだと思うんです。国連でこうやって活動を見ていると、本当に素晴らしい活動をしている人たちがいっぱいいるんです。その活動を世の中に伝えていけたらいいなと思っています。

 

(2008年5月28日。聞き手:桑原りさ、コロンビア大学SIPAおよび幹事会広報担当(当時)。写真:田瀬和夫、国連事務局OCHAで人間の安全保障を担当。幹事会・コーディネーター)

2008年9月8日掲載

 


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