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「核兵器は禁止されるか:被爆者が見つめる核兵器禁止条約交渉会議」
第114回 国連フォーラム勉強会

日時:2017年6月18日(日)14時00分〜16時00分
場所:コロンビア大学ティーチャーズカレッジ図書館3階 ラッセルホール305

スピーカー:三瀬清一朗(長崎被爆 1935年2月26日生まれ 被爆当時10歳)
田中稔子(広島被爆 1938年10月18日生まれ 被爆当時6歳)
砂原由起子(広島被爆二世 1956年11月15日生まれ)
川崎哲(NGOピースボート共同代表・核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)国際運営委員)
モデレーター:久保田智子 (TBSテレビアナウンサー・報道局記者)




■1■ はじめに
■2■ 核兵器禁止条約・核不拡散条約 (NPT)について
■3■ 平和は人類共有の世界遺産
■4■ 原爆の体験を語るのは被爆者としての責任
■5■ 次世代にかかる課題
■6■ 質疑応答
■7■ さらに深く知りたい方へ

■1■ はじめに

今回の勉強会では、広島と長崎の被爆者の方々をお迎えして「核兵器は禁止されるか:被爆者が見つめる核兵器禁止条約交渉会議」と題した勉強会を開催しました。6月15日から7月7日にかけて「核兵器禁止条約」の制定を目指す交渉の第二会期がNY国連本部で実施されている中でNYへ訪問された、被爆者・NGOの方々の思いを伺いました。

久保田智子(くぼた ともこ)
TBSテレビアナウンサー・報道局記者
東京外国語大学外国語学部卒。2000年4月にTBS(東京放送)に入社。2001年から2008年まで『どうぶつ奇想天外!』4代目アシスタントを務める。報道からバラエティまで幅広く活躍。2009年には企業グループ再編に伴いTBSテレビへ転籍。2013年からはTBS初の海外赴任特派員となる。帰国後報道局政治部(2014年 - 2015年)、報道局経済部(2015年 - 2016年)においてアナウンサー兼記者として活動。

まずはじめに、NGOピースボート共同代表・核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)国際運営委員の川崎哲(かわさき あきら)さんより、核不拡散条約 (NPT)および核兵器禁止条約をはじめとする核兵器廃絶に向けた国際社会の動きについてご解説いただきました。NPTの再検討会議および核兵器禁止条約の制定に係る交渉の変遷や、国際社会において核兵器の問題が人道問題に発展している流れをご説明いただきました。年内には、核兵器をつくる・持つ・使うことを禁止する「核兵器禁止条約」が制定される見通しである一方、核保有国の多くは「NPTで軍縮しているため核兵器禁止条約は必要ない」との見解を示している。また日本政府は、原爆被害国かつ憲法で非核三原則をうたっているにも関わらず、核兵器禁止条約に「反対」の立場を取っている。こうした状況をご解説いただくとともに、「たとえ核保有国が制定当初から条 約に参加しなかったとしても、核兵器禁止条約制定により核軍縮は大いに前進する」との川崎さんご自身の見解を示されました。

三瀬清一朗(みせ せいいちろう)
長崎被爆 1935年2月26日生まれ 被爆当時10歳
爆心地より3.6km地点にある自宅にて、オルガンを弾いて遊んでいるときに被爆。とっさに目と耳を両手でふさぎ、うつ伏せになったところで強烈な爆風に襲われる。幸運にも家族全員無事だった。自身の被爆体験にとどまらず、戦争中の日本の様子や、原爆が投下されてからの被爆者の生き方なども含めて、主に修学旅行生を対象に数多くの証言をし、「平和の尊さ」を強く訴えている。長崎平和推進協会継承部会に所属し、体験談の活字化、機関紙への投稿等も行っている。

次に、1945年8月9日に長崎で被爆された三瀬清一朗(みせ せいいちろう)さんより、被爆体験をご共有いただきました。10歳の頃に爆心地から3.6キロの場所で被爆。72年前の状況を今でも鮮明に覚えていらして、被爆直後からの状況や感情の変化を一つ一つご共有いただきました。核兵器で平和は築けない、戦争で苦しむのは市民であるという思いをお話いただく中で、「平和というのは人類共有の世界遺産である」という言葉がとても心に響きました。

続いて、1945年8月6日に広島で被爆された田中稔子(たなか としこ) さんより、被爆体験をご共有いただきました。6歳の頃、爆心地から2.3キロの場所で小学校への登校途中で被爆。同級生のほとんどが亡くなり、ご自身も大やけどで意識不明の重体になるなど苦しい経験をされた中で、人前で被爆体験を話せるようになったのは70歳の頃だそうです。被爆直後の状況に加えて、戦後の被爆者に対する差別についても語っていただき、「やけどの傷は癒えても、心の傷と放射線の影響は消えない」との言葉が印象的でした。核兵器禁止条約制定への期待と、条約へ反対の姿勢を取る日本に対して残念であるとの自身の思いを語ってくださいました。

最後に、広島出身・被爆二世の砂原由起子(すなはら ゆきこ)さんから、この先どのように原 爆の体験を伝えていくべきかについての思いを語っていただきました。お母様から伝えられた体験をご共有いただくと共に、次世代が被爆体験・平和への思いを語りづく重要性について訴えられました。

質疑応答セッションでは、核兵器禁止条約締結後の核保有国の動き、核兵器のなくし方、核の平和利用に対する見解、被爆者の目線からアメリカをはじめとする世界の状況をどのように考えるか、被爆体験の継承について等、活発な質疑応答が交わされました。

田中稔子(たなか としこ)
広島被爆 1938年10月18日生まれ 被爆当時6歳
国民学校に登校中2.3km地点で被爆。思わず顔を右腕で覆ったため、頭、右腕、首の左後ろ側を火傷した。その日の夜から高熱を出し、意識不明となるが、なんとか助かった。ニューヨークのプロジェクト「ヒバクシャ・ストーリーズ」に招かれるなど、7年間で10回以上渡米し、アメリカのさまざまな人に被爆証言をしてきた。核兵器禁止条約が被爆者が生存しているうちに成立するよう、精力的に活動している。

以下の議事録の内容については、所属組織の公式見解ではなく、発表者の個人的な見解である旨、ご了承ください。

■2■ 核兵器禁止条約・核不拡散条約 (NPT)について

久保田氏:核兵器禁止条約・核不拡散条約 (NPT)は複雑な課題。まずはその背景と現在の動向について川崎さんに解説をしていただきます。

川崎氏:本日お話をされる被爆者の方々の証言活動を支援するピースボートの「ヒバクシャ地球一周 証言の航海(通称おりづるプロジェクト)」には2008年から関わっている。このプロジェクトを通して寄港先で証言活動を行い、世界中に原爆について語っている。今回は航海中のピースボートの船から降りて飛行機でニューヨークへ来た。寄港先での証言活動を通じて、原爆投下後に何が起きたかを知る人は少ないという印象だ。

砂原由起子(すなはら ゆきこ)
広島被爆二世 1956年11月15日生まれ
広島市被爆体験伝承者候補者三期生(2017年認定予定)。学徒動員として郵便局で勤務していた母(当時15歳)は、爆心地から2km地点の宇品の郵便局で被爆した。また父(当時16歳)は京都の大学生で軍服工場で働いていたが、原爆投下の知らせを受け広島駅付近の自宅へ向かい入市被爆した。広島市の被爆体験伝承者養成事業に三期生として参加している。核兵器禁止条約へ向けて、どうしたら若い人に関心をもってもらえるかが課題だと感じている。

ICAN(International Campaign to Abolish Nuclear Weapons=核兵器廃絶国際キャンペーン)とは100ヵ国・400以上の団体で形成されている組織で、核兵器禁止運動を促進している。現在約1万5,000発の核兵器が世界に存在するとされている。オバマ前大統領は広島を訪問するなど「核兵器のない世界」への機運を高めていたが、そのあとのアメリカの新政権の誕生で180度転換。国連では今年の3月から核兵器禁止条約の交渉会議が行われていて、数日前に第二会期が始まったところだ。現存のNPT(核不拡散条約)では五大国(アメリカ、中国、ロシア、イギリス、フランス)だけに核兵器の保有が許され、保有国は軍縮をするという約束をし、条約の計画通りにいけば将来的には核兵器がゼロになるはずだとされている。

今回の核兵器禁止条約交渉会議では、核兵器が使われた場合には非人道的、かつ残虐な被害が生じるという共通認識のもとで核兵器を禁止するための交渉が行われている。背景には中立的な組織である国際赤十字の動きがある。2010年以来どの国が使っても核兵器は非人道兵器だという主張を赤十字はしている。仮に今日核兵器が使われたとする。どれくらいの被害が出るのかは想像をはるかに超える。局所的にインド・パキスタンの間で数十発使われたとしても、世界規模の気候変動を起こす恐れもある。実際に核兵器が使用されなくとも、事故による被害も看過できない。例えば、「安全」と見なされていた福島第一原発の事故のように、原子力や核兵器の事故はありうるものであり、核兵器を搭載したミサイルが誤って発射されてしまうリスクもある。現に防衛機関や軍事機関のレポートでは、核兵器が使用されるリスクは想像されている以上に高い、と報告されている。

2012年ぐらいからオーストリアやノルウェーなど、核兵器を人道問題として扱う国々が出てきているが、日本は遅れを取っていて、政府は核兵器の法的禁止を支持していない。クラスター爆弾など特定の兵器を禁止する条約はすでにあるが核兵器はまだ世界的に禁止されていない。今年中に核兵器禁止条約が決まる可能性がある。条約に反対しているのは核保有国とその同盟国。これまで核兵器の禁止については何度も決議があり、日本など核保有国と同盟を結んでいる国は投票を棄権していたが、今回は本交渉に入る段階で日本は反対にまわった。オランダは北大西洋条約機構(NATO)の一員でアメリカの同盟国でありながらも、核兵器禁止条約の決議には棄権し、反対の意を示さない姿勢を取っているのと対照的である。

川崎哲(かわさき あきら)
NGOピースボート共同代表・核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)国際運営委員
1993年東京大学法学部卒。2008年から広島・長崎の被爆者と世界を回る「ヒバクシャ地球一周 証言の航海」プロジェクトを実施。2009~10年、日豪両政府主導の「核不拡散・核軍縮に関する国際委員会」でNGOアドバイザーをつとめた。2014年5月、「集団的自衛権問題研究会」をたちあげ、同代表。著書『核拡散』(岩波新書)で日本平和学会第1回平和研究奨励賞を受賞。雑誌『世界』(岩波書店)をはじめ国内外のメディアに寄稿多数。近著に『核兵器を禁止する(岩波ブックレット)』がある。核兵器廃絶のためのNGOネットワーク「アボリション2000」の活動に1998年より参加、2016年まで調整委員をつとめた。 立教大学や早稲田大学、恵泉女学園大学などで講師を務める。
日本平和学会会員、第22期理事(2016~2017年)。日本軍縮学会会員・編集委員(2011年〜)。原子力市民委員会、第2部会(核廃棄物部会)メンバー。

注意が必要なのは核兵器の禁止と廃絶は一緒ではないこと。核兵器を禁止したからといって、核兵器がすぐに廃絶されるわけではない。実際にどういう言葉が禁止条約に含まれるかは現在交渉されているが、基本的にはつくる、持つ、使うことが禁止されるであろう。ただし条約が完成してもおそらく核兵器非保有国しか加盟しないという見方もある。たしかに、核兵器保有国が加盟しないことにはその実効力は高くならない。核兵器保有国が条約に加わる時期としては2つある。保有国が核を全て無くした時点で条約に参加するか、もしくは保有国が10年以内に核兵器を廃棄するなどの計画を立て、それが承認された時点で入るか。核保有国の多くは依然として「NPTで軍縮しているので核兵器禁止条約は必要ない」という見解を示している。今後さらに交渉が深まるなか、妥結点が必要になってくるのではないか。

核兵器禁止条約は核兵器を禁止する初めての条約として、政治的な圧力を背景に事実上の拘束力が出てくるのではないか。従って核保有国が入らなくても核軍縮は前進するであろう。唯一の戦争被爆国である日本は署名しない方針であるが、この姿勢は非核三原則がある中、法的・論理的にも問われることになるであろう。

■3■ 平和は人類共有の世界遺産

三瀬氏:10歳のとき、爆心地から3.6km離れた当時住んでいた家の中で被爆した。皆さんに質問がある。「10歳のときの今日の時間何をしていたか覚えていますか?」(一息置いて)思い出すのは大変だと思う。私は72年前のことを鮮明に覚えている。いかに怖かったか。1945年8月9日は暑い日で、空襲警報が解除されていた。私は家にあったオルガンを弾きながらB29の飛行音をまねしていた。11時2分、オルガンのふたを閉めた途端「ピカ」っとひかり、その瞬間私は身を伏せた。「ドーン」と音がした。当時「ピカドン」と呼ばれた原子爆弾の爆発の光線と衝撃波であった。爆風が10秒もたたないうちに家の中を吹き抜けていき、おしまいだと耐えていた。周りを見ると家の中の家財道具が完全に吹き飛ばされ、家の中の風景は一変しており、私は呆然とその一変した風景を見ていた。母が子供たちの名前をひとりづつ呼び、私たちは足の踏み場がないところを用心しながら母のそばに集まって怪我の確認をした。私は幸い壁オルガンの陰にいて、家族皆もたんすの陰などにいたため助かった。全員助かった喜びで泣き、気分が落ち着くまでその場を離れなかった。

やっと外に出たとき目にした風景は想像外であった。まだお昼であるのに黒い雨が降っていて、雨を拭った記憶がある。あとになってから、その雨は放射能を含んだ雨だと知った。学校が気になり、様子を見に行った。そこではまた想像以上の光景を目にした。女か男かわからないほど負傷した人たちがどんどん学校に運ばれてくる。「水をください」、「水を飲ませて」と口々に負傷した人たちから求められたが、あまりにも突然で何もできなかった。学校に運ばれた人たちは体育館に並べられたが、薬も何もないので放置された状態であった。負傷者は苦しさのあまり、最後には「殺せ」「殺して」と叫ぶ人もいた。急に静かになったと思ったら亡くなられていた。死んだ人たちの遺体はグラウンドに穴を掘り板や材木を渡しその上に乗せられて焼かれ、学校のグラウンドは死体処理所と化す。8月いっぱいまで続いたと聞いている。

終戦のときはうれしかった。太平洋戦争が開始された小学1年生のときから、5年生のときに原爆を体験するまで空襲・避難ばかりでおもいきり遊べなかったからだ。一番辛かったことは、9月12日に二学期が始まったとき、先生が生徒の名前を席順で呼ぶと返事が返ってこなかった生徒が複数いたこと。原爆で亡くなった生徒たちであった。

戦後大変だったことは、食糧難であった。私が母に向かって「腹がへった」と言うと、母は「動かず寝ときなさい」と言っていた。馬や牛に食べさせる大きなカボチャなどが配給され、同じものを3日連続で食べさせられたこともあった。

被爆者と結婚すると、奇形児・障害児が生まれるという当時の風評がある中、私は1964年に結婚し、二人の息子を授った。当時被爆者の家庭に子供が生まれると、父親は病院に駆けつけて「手と足の指は10本ずつありますか?」と医師に聞いたものである。私は現在健康そうに見えますが、8月9日に黒い雨を浴びているので、どうなるのかわからなかった。被爆した家族8人のうち、4人はがんで亡くなっている。

私は戦争というのがどれくらい怖いか、無意味であるのかを身に染みて、体感している。戦争で悲しい体験をさせられるのは我々市民。核兵器を使わないでほしい、禁止条約を締結してほしいというのは心からのお願い。2週間ほど前にアイスランドのレイキャビクへ行き、レーガンとゴルバチョフが冷戦時代に進めた核戦力全廃の交渉の現場を訪れた。実際には、中距離核戦力全廃条約が結ばれたが、その会合ではすべての核兵器を廃止する提案すらも出ている。核兵器の全廃こそが我々被爆者の悲願だ。そのためにも、ピースボートの寄港地で原爆の話を伝えていきたい。地球は先祖から預かっているものであり、子供たちにもとっておきたい。平和というのは人類共有の世界遺産である。

久保田氏:一番よく思い出すシーンは?

三瀬氏:原爆が爆発したときの光。私は家の中にいたのでキノコ雲は見ていない。ただ原爆が放った「ピカ」は強烈なもので、太陽が落ちてきたような感じだった。また、カメラマン1,000人が一瞬にしてフラッシュをたいたのと匹敵するといっていいだろう。

■4■ 原爆の体験を語るのは被爆者としての責任

田中氏:被爆体験について語り始めたのは70歳から。あまりにも悲惨だったため、思い出したくなかった。また、人の理解を得られないだろうと思っていた。6歳10ヵ月のときに被爆した。放射線を直接浴びることになった。

原爆投下の6日前まで爆心地に住んでいたのだが、原爆投下時には爆心地から2.3km離れた町に引っ越していた。しかしながら、そこでも結果的には原爆に対して安全ではなかった。午前8時15分、登校中のところ「B29!」と誰かが叫び、見上げた途端、原爆の光線を浴び被爆し、やけどを負った。あたりが真っ暗になり、爆風に包まれて口の中がじゃりじゃりした。何が起こったのかわからなかった。右腕で顔をかばったため、腕に大きな水ぶくれができたが、頭は大丈夫なようであった。家に戻ると辺りはめちゃめちゃになっていた。ただし、屋根の割れ目から青空が見え、そのときの印象が非常に鮮明に残っている。その青空には「終わりではない、明日がある」という意味が含まれているような感じがして、元気付けられた。家にいた母は無事であった。ちょうどトイレでしゃがんだときに原爆が爆発。母は帰ってきた私を見て、あまりにも姿が変わっていたのか、最初自分の子供だと認識しなかった。その夜から私は高熱を発症し意識不明の重体になったが、病院も崩壊し医者も死亡し不足していたため、母が私の看病をした。

広島では14万人の市民がなくなった。爆心地にいた私の同級生は全員死んだ。私の家の前では、肩から落ちた皮膚をつま先からぶら下げた瀕死の方がぞろぞろ歩いていた。現在もバーベキューで焼いて皮が柔らかくなったトマトを見ると当時の風景を思い出してぞっとする。母は行く場所を失った人々を家に泊めた。中には妹をおぶってきた15歳の女学生がいて、母がかぼちゃをあげてもお姉さんは食べなかった。妹は助かったが、姉の女学生はすぐに亡くなった。おそらく放射線を浴びていたからだろう。

私の右腕に負ったやけどは薄くなったが、心の傷と放射線の影響は残った。広島では何百人もの方が白血病でなくなっている。折鶴の佐々木禎子さんとは同じ小学校。白血病の病状は成長期に出てきやすい。当時は病状が出てもどこに行けばいいかよくわからない状態であった。戦後6年間、放射能は害はないという主張を政府やメディアはした。私は倒れたり、口内炎が治らないことが頻繁にあった。原因不明の出血や、骨折も体験した。妹の娘が甲状腺がんにかかるなど、子供たちの健康に関する問題もあった。当時被爆者は差別されていたため、最初の子供が生まれたとき、夫が病院に来て赤ん坊の手足を確認したことを覚えている。ピースボートに乗ったとき、当時被爆者がいた家庭の父親はみんな同じことをしたと知った。

核兵器廃絶の応援がしたいと思い、2009年から7年間「ヒバクシャ・ストーリーズ」(ニューヨークの中学生や高校生などの次世代に原爆について語る取り組み)参加。2011年の3月23日には国連の前事務総長、コフィー・アナンさんと面会し、もうこれ以上被爆者を作りたくないということを訴えた。福島第一原発の事故では、自国の施設から放射能を放ってしまい被曝者を作ってしまった。震災のすぐ後のことで、発言する勇気が必要だった。アナンさんは正式な立場は別として、個人的には同意していた感じであった。50年以上、トラウマで原爆のことについて語る勇気がなく、作品にメッセージを忍ばせていた。現在は言葉できちんとメッセージを伝えるのも原爆で生き残った我々の責任だと感じている。唯一の被爆国である日本が核兵器禁止条約に反対していることに失望しているが、非人道的な核兵器の禁止は本来どの国も望んでいることである。

■5■ 次世代にかかる課題

久保田氏:現在コロンビア大学で大量破壊兵器についてのクラスを受講している。そのクラスの教授は、「第二次世界大戦後核兵器が使われなかったことは奇跡、だがこれからはわからない」と言っている。今後使われないようにするにはどうすればいいのか?次世代にかかる課題だ。

砂原氏:父は当時京都の大学生。学徒動員(戦争末期、労働力不足を補うため学生を軍需産業や食料生産に動員した政策)で兵士の服を作る工場で働いていた。祖父は広島駅で被爆、その年の12月に亡くなった。家族を支えるため父は大学を辞めて働くことになり、原爆についてはあまり語らなかった。

母は当時広島の郵便局に勤めていた。爆心地から2.3kmの地点で被爆した。ものすごい光の後に地響きが鳴り、黒い塊りに覆われあたりが真っ暗になり、世界の終わりだと思ったという。気づくとあちこちに人々が幽霊のようにさまよっていて、彼らの腕の皮膚は焼けて爪のところで止まっていた。手をやけどするとわかるが、皮膚が薄くなり、腕をあげていなくては痛くて痛くてしょうがなくなる。そのとき母が見たのは、全身をやけどで負った人たちが手をあげて歩いている風景であった。黒焦げになっている人、背中に柱が刺さっている人、母乳をやりながら焼けしまっている親子などもいて、母は「水をください」と足を引っ張られたという。助かったものの、いつ後遺症が出るかという不安に母は悩まされていた。

アメリカは罪のない人たちをなぜ殺さなくてはいけなかったのか。当時の日本人はアメリカを憎んでいたと思う。ただし、平和は憎しみから生まれない。原爆で亡くなった人たちの命を無駄にしてはいけない。母は72歳のときがんで亡くなった。被爆者の平均年齢は80歳をこえている。体験を聞く機会がなくなってきている。広島市は後世に残すため証言を収録する活動を行っている。伝承者の養成事業も行われていて、私はその三期生として被爆体験の伝承者となり、実相を語ることによって広島で何が起こったのかを伝えていきたい。

日本は平和利用の、原子力発電所を建設し使用してきた。ただし、福島の事故が起こってしまった。私はピースボートに乗船し、さまざまな寄港地で学校や政府関係者に原爆の話を共有している。被爆者、被爆二世、そして広島・長崎市民は強く核兵器の保有禁止を訴えている。日本政府が禁止条約に反対しているのは本当に残念だと思う。核兵器が使われることで被害を受けるのは普通の市民である。

■6■ 質疑応答

質問:クラスター爆弾などを禁止する条約の内容はどのようなものか?
川崎氏:基本的に兵器をつくらない、持たない、使わないことが定義され、それらの廃棄が定められている。主要保有国は条約に入っていない。

質問:核を廃棄する具体的な方法は?
川崎氏:核兵器を無力化するにはまず核物質と爆発装置を最初に取り外す。核物質の廃棄は原発の廃炉で行われるように薄めて地下に保存するしかない。もしくは薄めて原発の燃料にする。いずれにしても処理問題が最終的に残る。

質問:核実験に関しては?
川崎氏:包括的核実験禁止条約(Comprehensive Nuclear Test-Ban-Treaty;CTBT)という既存の条約があるので、核兵器禁止条約に含むことについては、「重複は必要なのか?」という疑問を持つ国がある。核爆発実験は現在禁止されている。インド・パキスタンも1998年以降は核実験を行っていない。例外なのは北朝鮮だけ。ただし核実験のコンピュータシミュレーションはアメリカなどの国で行われている。シミュレーションも禁止範囲に含まれるべきかが検討されている。

質問:核兵器禁止条約に拘束力はあるのか?
川崎氏:契約国は条約を守らなくてはいけない。検証可能か、違反があった場合罰することができるのか、脱退できるのかなどが課題。強制執行能力は国際条約が弱いところ。脱退できるかどうかに関しては、NGOは脱退の権利を締結国に与えるべきではないと主張している。現時点の原案では戦時中を除き、脱退は可能になっている。

質問:核兵器禁止条約が成立するには何カ国の署名が必要なのか?
川崎氏:原案では発効されるために40カ国の署名が必要とされている。勢いを失わないためなるべく早く発効させないといけない。ただしいまだに強い反対を示している国もある。条約署名国と署名しない国との間の対話が必要。そのため非締約国とも話を持てるようなメカニズムが原案には定義されている。

質問:自民党以外に他の政党の核兵器禁止条約に対しての姿勢は?
川崎氏:国会議論はまだ深まっていない。自民党の議員の中でも必ずしも意見が全部一致しているとは限らない。公明党は何らかの形で参加すべきではないかという主張。共産党は条約賛成派。民進党や維新からは質問が出ている段階である。

質問:核兵器禁止条約の会議の中で、平和利用についてはどのような議論がされているのか?原子力発電所を平和利用のために稼動させることによって、逆に六ヶ所村みたいなところから原爆の材料になるようなものが出てくる可能性もあるのではないか。
川崎氏:単純化していえば原発の燃料を濃くすると原爆の材料になるわけだから、平和利用と核兵器のつながりは核燃料にあるといえる。原発の燃料の生産を維持するのか、する場合は平和的な理由以外に使われないようにどう検証するのか。核兵器は禁止するべきだが、平和利用は支持するという国が多い。途上国の中では権利の主張がしたい国もあるらしい。

質問:アメリカについてどう思っているか?アメリカの世論の変化は?
三瀬氏:日本から距離が離れると原爆への認識が薄くなってくることを強く感じている。当時アメリカは憎きものであった。しかし、一方で食糧難で助けてくれたのもアメリカだった。原爆を憎んだが、アメリカのおかげで命をつなぐことができた。
田中氏:戦時中、アメリカのことを「鬼畜米」といっていた。当時アメリカを憎んだ。戦後給食にレーズンが配給された。一人たったの5粒、あまいのでおいしいかった。少し前まで敵国だった国からのレーズンの奪い合いでけんかしている生徒たちを先生が涙を流しながら殴ったのを覚えている。よほど先生には当時の状況が悔しかったのであろう。現在アメリカの世論は、原爆投下は真珠湾攻撃の復讐や実験のためではなく、旧ソ連への牽制であったという主張が主だ。

質問:世代間ギャップについて。一番の課題は?
砂原氏:真実を話して理解を求めることが必要。実相を伝え、相手に理解していただきたい。

質問:次世代に期待していること、期待していないこと。
三瀬氏:被爆者の平均年齢は80歳を上回っている。一番若い人で70歳前半。あと30年もしたら被爆者がいなくなる。被爆二世や若者に期待を置いている。
砂原氏:原爆が落ちてから72年、「もう一回使おうか」というような考えがアメリカや日本でも出てきている。意外にも人間は忘れやすい。戦争も忘れられるようになってきている。

質問:原爆体験の継承について。NHKの記事には学校で原爆について話す機会が15年前と比べて減少していると記載されている。語る機会が減っているのか。もしそうであれば原因は何か?対策はあるのか?
三瀬氏:原爆について社会科の教科書では3行ぐらいで終わっている。教育の方法に問題があるのではないか。断片的な教育より歴史の流れを教えるべきだと思っている。例えばピースボートに乗って知ったことであるが、韓国では歴史の流れが教えられるらしい。私は長崎で語り部(被爆体験を若い世代に語り継ぐ活動)をやっていて、修学旅行生が受ける平和学習の中で時間を設けている。被爆者の話を通してすごいことを知ったと言う生徒もいる。
田中氏:回数は減っている。文部大臣の質が最近変わっているのではないか。「はだしのゲン」が図書館から撤去されるなど、戦争の痛みが消されている感じがする。メディアでも同様。

■7■ さらに深く知りたい方へ

このトピックについてさらに深く知りたい方は、以下のサイトなどをご参照ください。国連フォーラムの担当幹事が、勉強会の内容をもとに下記のリンク先を選定しました。

● おりづるプロジェクト | 国際交流NGOピースボート
http://peaceboat.org/projects/hibakusha.html
https://ameblo.jp/hibakushaglobal(ブログ)

● 長崎市|平和・原爆|被爆体験講話:「語り部(かたりべ)」
http://www.city.nagasaki.lg.jp/peace/japanese/talk/

● ヒバクシャ・ストーリーズについて
http://hibakushastories.org/jp-about-hibakusha-stories/

● 核兵器 | 国連広報センター
http://www.unic.or.jp/activities/peace_security/disarmament/mass_destruction/nuclear_weapons/

● 核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)英語サイト
http://www.icanw.org/



2017年12月19日掲載
企画リーダー:三浦弘孝
企画運営:原口正彦、中島泰子、天野彩佳
議事録担当:三浦弘孝
ウェブ掲載:三浦舟樹