国際仕事人に聞く

国際仕事人に聞く第25回 齋藤直子教授

国際仕事人に聞く 第25回記事

境界を超える生き方としての

民主主義と現代

京都大学大学院教育学研究科・教授 齋藤直子教授

「国際仕事人に聞く」第25回では、京都大学・大学院教育学研究科・教授の齋藤直子先生にお話を伺いました。アメリカ教育哲学を通した生き方としての民主主義、それに伴う自己変容、そのきっかけとなる国際交流について、日々変わり続ける現代における自己のあり方、国際社会におけるコミュニケーションの在り方ついて考えさせられる示唆に富んだインタビューとなりました。是非ご覧ください。(2020年4月)

 

研究されているアメリカ哲学や民主主義と教育の分野について詳しく教えてください。

19-20世紀のプラグマティズム(※語句説明1)と18世紀のアメリカ超越主義(※語句説明2)を主に研究しています。文献解釈をするだけでなく、「国境や文化、言語の境界を超えて、人が互いに自分の立場を批判的に見直し、創造し、作り直すことを通じてどのように相互理解を深めていけるか」という研究の根本課題に対して、アメリカ哲学研究と国際交流を繋げて取り組んでいます。国際交流プロジェクトを実施する中で、主に欧米を中心とした研究者と共に対話を通じて哲学を生きたものにしていく研究を行っています。

           

国際交流プロジェクトとはどういったものをおこなっているのですか。

二つの種類があり、第一にデューイ(※語句説明3)やエマソン(※語句説明4)に代表されるアメリカ哲学の内容に関わる国際交流、第二に研究手法や研究の実践としての国際交流です。一つ目は日本人としてアメリカ哲学という異文化の研究を行なっていることです。日本では生き方としての民主主義という価値観や日々の中での実践が浸透しておらず、それを根付かせていかなければならないと思っています。そこで自国の民主主義を内部から批判し、真の民主主義を実現するために異文化の声を取り入れることの重要性を唱えているアメリカ哲学にヒントがあると思い、研究を続けています。恩師のスタンリー・カベル先生がかつておっしゃっていたように、まさにアメリカ哲学に代表されるエマソンやソローなどの哲学者はアメリカ最大の遺産であり、よきアメリカ性を体現していると言えます。彼らはアメリカが民主主義国家を名乗りながら、民主主義を実現できていないということを批判し、外に絶えずアメリカ文化を開いていくと同時に、常に異文化の声を受け入れていくことを課題にしています。ここにアメリカ哲学の国際性を見出しています。

具体例を挙げると、デューイが1920年代に訪日した際に、彼が想像していた民主主義が日本にはないという衝撃的な体験をしました。彼が直面したのは、日本という異国の地では民主主義という思想が翻訳不可能(untranslatable)だということでした。翻訳が不可能というのは、単に言語の置き換えができないだけではなく、そういった文化、思想が根付いていないということでした。ここで民主主義を他文化に伝えることの難しさに直面します。これはアメリカ哲学や民主主義の思想を異文化に伝える、あるいは異文化と交流させることを考える上で非常に重要な点だと思っています。このようにアメリカ内部批判をしながら、外に開いていく、境界を越える勢いを持っているのがアメリカ哲学の持つ国際性だと思っています。

現代の日本でも、民主主義国家と言われていながらも、民主主義が根付いていないのではないかと感じています。日本では民主主義に必要な「一人一人の自分らしさを出す。自分の声を出す」という文化、また、「私が私であること」と密接に関わる「他者の声を聞くこと」、それらを活性化する土壌がいろいろな局面で不在だと感じています。それは単に日本は集団を重んじるなどステレオタイプを当てはめているわけでは一切なく、民主主義の在り方を異文化で実践することの難しさを感じると同時に、生き方としての民主主義をどう伝えていけるかが、日本で研究や教育を行っている動機づけになっています。

日本のように「一人一人の自分らしさを出す」や「個人の声を聞く」といった民主主義の思想が根付いていない、翻訳が不可能な文化において、民主主義を根付かせるために教育はどうあるべきでしょうか。

これは先ほど挙げた二つ目の種類の国際交流プロジェクトに関連しています。私の研究の二つ目は国際交流、他者との交流を通じた哲学です。例えば、専門家だけでなく、学生や日本に住む外国人など、様々な立場の人を対話に入れた国際会議を開いています。このような国際会議では、自然科学分野とは異なり、共訳できる要素が非常に少ない哲学において、特に日本人にとっては、英語という外国語で欧米人とコミュニケーションをとることの難しさを感じます。しかし、国際的な場に対する戸惑いや恐れを見せていた学生に、それらを超えて自分の思想の一部でも伝わった時の喜びを感じてもらえればと思い、おこなっています。会議の後はそれを授業に持ち帰ったり、授業内容を会議で取り扱ったりと、実践的な哲学的対話の場と教育を繋げています。また、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)教育研究所とは国際交流事業として定期的にロンドンと京都で合同授業を開催しています。イギリス側からはイギリス人だけでなく、インドや中国など多様な文化的背景を持った学生も参加しています。自分の意見を主張する学生たちのいる環境で、様々なテーマを扱った合同授業に参加することが、日本の学生にとって異言語を使って哲学的思考をするトレーニングになっています。

合同授業のテーマはどういったものがありますか。

「生き方としての民主主義」を日々の生活の中で実践してもらうために、自己発見や自己変容を起点にしてどのように民主主義に参加していくかというテーマを主に扱っています。最近では合同授業を一緒に教えているロンドン大学のスタンディッシュ教授の専門である、映画を通して人のあり方を考えるということを実践しています。日本と外国の映画からそれぞれ自己発見や翻訳不可能性などのテーマを描いている作品を選び、議論しています。

やはり市民性教育などでただ「多様な声を聞いて、異質な人も受け入れていく」というようなことを伝えているだけでは人の行動は変えられないと思っています。なぜ異質な人に対して寛容にならないといけないのか、なぜそのために自分が常に変化していかなければいけないのかを本質的に理解するためには、それを実際に体験してもらうことが不可欠です。そのために、国際交流を通した授業では、自分が変わることがより大きな公共性を育むことの起点になるということをテーマにして、学生自身に、他者に対する恐怖心を乗り越える経験をしてもらっています。また、授業中に発言するだけでなく、授業後英語で論文を書くことで、自分の声を出すという達成感が得られているようです。英語の論文はプロシーディング(報告書)という形で出版しています。

生き方としての民主主義と自己変容の関係について詳しく教えてください。

「生き方としての民主主義」はデューイが第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の時期に書いた創造的民主主義(Creative Democracy)(※語句説明5)の論文の中で言及されています。人と人が敵対して、戦争をしている時代に、デューイは敵であっても友としてお互いから学び合え、経験を豊かにできることが民主主義の本質だということを語っています。これは現代社会にも当てはまることで、ブレグジット(BREXID)やトランプ大統領選出に代表されるように、移民や異質なものに対する恐怖や排斥というのは今でも見られます。そういうメンタリティを日々の実践の中でどう変えていけるのかをデューイは問いかけているのです。恐怖や不安の対象となる異質な他者に対し、自分の経験や生き様を豊かにするためには、日々の生活の中で自分を開き、自分を変えていくことが重要であり、それが民主主義の根元だとデューイは言っています。

それと並行して重要なのが言語教育です。生き方としてのレベルで政治的な参加ができるようになるためには他者とどうコミュニケーションをとっていくかが重要になります。それも他言語を使用した翻訳経験を通じて、単一言語で全ての事象が表象されるというメンタリティを揺さぶられることが自己変容につながる経験となると思っています。というのも、翻訳というのは単に言語を置き換えるという意味ではなく、冒頭で申し上げたデューイが訪日した際に感じたような翻訳可能な思想や文化の欠如を目の当たりにすること、すなわち、自分が当たり前だと思っていた事柄や自分の立場が揺さぶられる経験をすることが、自分を変えるために不可避だと思っています。そういったある意味、自己喪失の経験というのを可能にするのが翻訳経験であるため、母語だけでなく、他言語を使うということは非常に大切だと思っています。よって、他言語を使用することで自己変容が生まれる、それこそが生き方としての民主主義を培っていく上での根本的な経験だと思っています。

アメリカ教育哲学や「生き方としての民主主義」について研究することになったきっかけや今までの経緯について教えてください。

大学生の頃に図書館でエマソンの本を読み、衝撃を受けました。そこで彼をはじめとしたアメリカ哲学に興味を持ち始めました。今でもこうしてアメリカ哲学の研究をしているのは、大学生の頃に受けた衝撃に加え、アメリカ哲学の深みや豊かさを世に伝えている先生方との出会いが非常に大きかったと思います。大学卒業後は企業で働いたのち、アメリカの大学院へ進学しました。二度の大学院留学(修士号を取得したのち、一度日本に帰国し、また博士号を取得するために留学)中に、生き方としての民主主義を生きて、思考し、人に伝えることがいかに大切かということを、身をもって教えてくれた方々に出会いました。文献研究だけに留まるのではなく、哲学を日常に連れ戻すことをされていた方々で、日常で役に立たなければ思想は何の意味もないというアメリカ哲学を体現されており、それにとても惹かれました。今でも私がアメリカ哲学の研究をしているのは、そういった理由があります。

具体的にどのような方との出会いに影響を与えられましたか。

一人目は、私を教育哲学の道へと誘ってくれたハーバード大学のイズラエル・シェフラー先生です。大学時代はアメリカ哲学において、教育を研究の対象にはしていなかったのですが、彼に教わって教育の幅広さや重要さ、デューイも言っている人の生き方と教育(教え、育むこと)は不可分だということを教えていただきました。こんなにも教育が素晴らしい分野であれば、この教育哲学の分野を追求したいと決意しました。

その後日本の大学院に入学しましたが、アメリカ哲学の息吹を直に思想に吹き込む必要性を感じ、博士号取得のため再び渡米しました。そこで出会ったのが、ヒラリー・パトナム先生です。彼はハーバード大学の哲学部でデューイについての授業の講義をしていました。そこで、彼にデューイの生き方としての民主主義について徹底的に教えてもらいました。授業を録音し、何度も聞き直し、わからないところは質問をするということを繰り返し、デューイの思想について深く学ぶことができました。

その先生の授業を取ったことをきっかけに今でも私の研究の支えとなっているスタンリー・カベル先生をご紹介いただきました。カベル先生は最終的に博士論文の口頭試問の時にも入っていただいた恩師であり、「エマソンの超越主義とデューイのプラグマティズムには同じアメリカ哲学でも乖離がある」と考えていたところ、それに共感してくださった初めての方でした。エマソンとデューイは、個を重んじることと公共性のどちらに力点をおくかに関して少し違っています。デューイは「生き方としての民主主義」について唱えているように、社会全体や公共性に焦点を当てているのですが、エマソンは自己変容、内面を見つめることや、個人と言語の関わりといったように個に力点をおいています。この二人の焦点の違いや距離感を分かってくださった思想家がカベル先生でした。とは言っても、エマソンやソローの言うような個人に焦点を当てることで、社会性を無視しているわけでは決してなく、エマソンが「最も内なるものが最も外なるものになる」と言っているように、内的なものを深めていけば、いずれは普遍的な力になると考えています。

最後に、日本に帰国した後、イギリスでも研究活動をしてきましたが、その時に出会い、現在も国際合同授業で一緒に活動しているポール・スタンディッシュ先生との出会いも私の人生にとって非常に重要でした。彼はまさにエマソン、ソロー、言語を司る個々の人間が「生き方としての民主主義」を作っているということを理解されている方です。この四名との出会いがなければ、私は今の研究を、これほど確信を持ってできていなかったと思います。

そして、このような素晴らしい出会いを通して研究を続けている中で、「人がいかに生きるか」、「どのように本を読むか」、「どのように人とコミュニケーションをとるか」といった課題に対して、自分の経験やアメリカ哲学から得たことを社会に還元していくことが私の国際交流活動の使命だと思っています。

 

民主主義や教育は、国連でも重要な課題で、持続可能な目標(SDGs)のひとつであり、グローバルシティズンシップ教育や教育を通して文化多様性への寛容や文化理解、相互理解促進はUNESCOも推進しています。齋藤先生は民主主義を達成する上で、具体的にどういった教育が望ましいとお考えでしょうか。

やはりどのような市民性教育、グローバルシティズンシップ教育をおこなっていくかが重要だと考えます。私の書物や実践の中で市民性教育やグローバルシティズンシップ教育を用いる時には、いわゆる教育分野で市民性教育が使っている語彙や論議とは違うところでそれを実践していますし、そういうことも重要だと思っています。どういうことかといいますと、先ほどの繰り返しになりますが、広い意味での政治教育(Political education)というものは、ある種人間の美的感性(Aesthetic Sensibility)の育成、他者への想像をはぐくむ教育が求められると思います。人間が政治的に豊かな存在になるためには、先ほど言語教育が不可欠だといいましたが、それと密接に関わるものとして、ある種美的感性の教育が必要だと思っています。それは、いいと思うものについていいと言う、しかしそれを言うだけではなく、他の人に伝え、分かってもらうことを前提とした上でそれをどう表現できるかという意味で、表現の教育というものが重要だと思います。先ほど述べた映画を使った教育の実践もまさにその一つの具体例です。映画を見ると、教えている自分も教えられている学生も日常の枠を超えて、驚きの経験を持ち、ある種異質な世界に入っていくことができます。映画のどのような場面、言葉に注意を払うかということを通じて、ものを見て感受する教育ができるということを実感しています。それは単に映画を見てあらすじをまとめたり感想を述べたりということではなく、日常の細々とした場面に繊細な目を向け、耳を傾けることで、人が持つ自らの枠組みにとらわれたまま物事を動かしてしまう傾向性、そういったある種の傲慢さを超えて、謙虚に人の言葉に耳を傾けられるような感受性の育成ということが政治教育やシティズンシップ教育を言う時の根源にあるのではないかと思います。これはスタンリー・カベル先生やポール・スタンディッシュ先生から学んだことでもあります。

もう一点、私が解釈しているアメリカ哲学が教えてくれる政治教育、市民性教育では、逸脱するものや、周縁にあるものの声に耳を傾ける訓練や経験を積むことが大切ではないかと思っています。大多数の意見に従っていくことは安心することではありますし、自分を脅かされないで済みますが、色々な局面で逸脱者の声を受容する経験を積んでいく教育が必要だと思いますし、その意味で先ほど述べた映画を使った教育というものは一つの例ではないかと思っています。

 

現在の研究をもってどのように展開されていくことをお考えですか。現在、地球規模問題であるパンデミックという非常事態の中で、ナショナリズムの傾向が強まり内向きになっていく国や社会も出現し、政治的な意味で民主主義が脅かされている中で、アメリカ哲学が示すものがあれば教えてください。

すごく重要で難しい質問がきましたね。言っていただいて本当にそうだと思うのですが、そういうことにぜひ応答していきたいと思います。人類が今まで経験したことがないようなこの異様な状況の中で、戦争とは違う形で(デューイが言った戦争の時の生き方としての民主主義とは違う次元で)、民主主義が試されている時代だと思います。先ほど逸脱者の声に耳を傾けたり、異質なものに自分の常識やこれまでの価値観を揺さぶられたりする経験が必要だと言いましたが、それが今パンデミックで、人の命を脅かすウイルス感染が人を不安に陥れている状況ですよね。現在は人と距離を取るソーシャル・ディスタンスが奨励されていますが、それは生き方としての民主主義と逆方向に進んでいます。もちろんその制約があるために、今おこなわれているインタビュー(※オンラインで実施)のように、初めての方と密な会話ができるなど思わぬ発展もあります。しかし、皆が家あるいは国境の中にこもり、身を守るという、言ってみれば一番保守的な状況になっている今、アメリカ哲学のある種の開放性や、国境の超え方が一番試される時期であると同時に自分の中に存在する不安や他者への恐怖心等を克服して、どう人と共生できるかという重要な課題を投げかけている哲学として、もう一度見直されるべきではないかなと考えました。そんな論文も書けたらと思います。

 

齋藤先生の考える国際仕事人、国際市民とはどのような人でしょうか。

国際仕事人の一番重要な条件として考えるのは、内部批判というか自文化批判ができることだとだと思います。自分の文化というのも変ですが、私は根本的に文化に一つのアイデンティティはなく、アイデンティティというものは文化においても個人においても、流動的なものであると考えています。自文化批判ができるということは、自分の文化や身の回りの人を大切に思っていないとできませんし、創造的な批判を通じて、文化の中におかしいことがあればNoを突き付けていけるような批判力を持った人間でなくてはいけないですし、それができる人こそが境界を越える力を持てると思っています。私がアメリカ哲学から学んだスタンスとして、国境が最初から全くなく、全部が人類一つということを理想型として設定するのではなく、境界の内側から自文化・自言語との批判的関わりを通じて境界を揺さぶり、他者との共同体を生み出しコスモポリタンになりゆくプロセスはとても重要だと思います。そこにどうやって至るかは、文化さらには言語との関わりというものを突き詰めることが必要です。それをおこなう過程で、人は本当に自分の限界や境界を超えて外に出ていく力を育めるのではないかと思います。

二点目の国際仕事人の条件は、自己批判をすることにより、人の話に耳を傾けることができ、異質なものの声に耳を傾けることができる、受容できる感性を持った人だと思います。

三点目の条件として、様々な領域の国際仕事人がいると思いますが、学際性も重要であると考えます。人文学と科学、また人文学の中でも色々な分野(社会学、美学、哲学、宗教学)がありますが、そういう境界を越えた対話に自分の学問を開ける人が国際仕事人の条件ではないかと考えます。

【語句説明】

1.プラグマティズム

実用主義や道具主義と訳されるが、より広義には、そしてより深くは、哲学は日常生活と結びづけられることによって試され意義を獲得するという思想である。1870年頃アメリカで発祥した思想的潮流。思想は科学的な検証と同じように、実世界で役に立つか検証、実験した上で成り立つものであり、社会的な進歩に役立たなければ思想や哲学は意味がないという考え方。思想家ジョン・デューイによって、政治や教育との結びつきが強まった。

参考:https://www.iep.utm.edu/pragmati/

2.超越主義

19世紀前半思想家ラルフ・ウォルド・エマソンやヘンリー・デイヴィッド・ソローを中心とした現代アメリカ思想の一つ。人間が生まれながらに持つ善性を強調し、論理や経験を超越した洞察が真理をもたらすという考え方。

エマソン、ソロー、フーラーらを中心とした19世紀半ばに最盛をきわめたアメリカ超越主義は、人類復興のための文学、宗教、政治を巻き込む学際的でコスモポリタンな思想運動であり(Buell 1996)、奴隷制反対、反戦、フェミニズムを標榜する生き方としての民主主義の運動でもある。

英米思想の伝統のみならず、ドイツ思想やヒンズー教、仏教、儒教、イスラム思想に由来するアジアの古典をも取り込んだ異文化的(国際的)運動である。

その思想の先見性はポスト構造主義や日常言語哲学、フェミニズム研究との接点に示され(Cavell 1979; Matteson 2012; スタンディッシュ2020)、現代の文脈で再評価されている。

参考:https://www.britannica.com/event/Transcendentalism-American-movement

3.ジョン・デューイ

20世紀前半における最も著名なアメリカの哲学者、教育学者の一人。プラグマティズムや教育においては経験を通して学習を推進する進歩主義運動を広めた。特に教育論はアメリカ国内に留まらず世界中に影響を与えた。著書には『経験と教育』や『民主主義と教育』等がある。

参考:https://plato.stanford.edu/entries/dewey/ 

4.ラルフ・ワルド・エマソン

19世紀のアメリカ哲学者、思想家、エッセイスト、詩人。超越主義の指導者。個人主義を唱えた。『アメリカの学者』はアメリカの知的独立宣言といわれ、学者は一番に自然との関わり、そして本と行動によって教育、鍛錬されることを主張した。

参考:https://plato.stanford.edu/entries/emerson/

5.創造的民主主義 (Creative democracy)

“Creative Democracy – The Task Before Us”は、1939年に出版されたジョン・デューイの論文。ファシズムの台頭に立ち向かい、より良い社会を築くために民主主義は倫理的な理想であり、他者との協力しながら、人々の努力によって創造するものだと唱えた。

参考:https://www.philosophie.uni-muenchen.de/studium/das_fach/warum_phil_ueberhaupt/dewey_creative_democracy.pdf 

2020年4月オンラインにて収録
聞き手:横井裕子、志村洋子
写真:ご本人から提供
ウェブ掲載:横井
担当:瀧澤、横井、志村
2020年8月10日掲載